名門と官僚と宦官
話の始まりになったTL
太原起義からの功臣である裴寂、劉文静あたりが凌煙閣二十四功臣に入っていないのは終りが宜しくなかったのが理由だろうけど、謀反を企んだ侯君集がそのまま凌煙閣二十四功臣にカウントされているあたり、基準が良くわからないな。
2013-08-20 07:46:40たしかに凌煙閣に二十四功臣の絵を描かせた時点では侯君集は謀反を企んではいないが、謀反の計画が発覚した後、凌煙閣からも除かれて不思議はないと思うのだけど。李世民は侯君集を惜しんで死罪は免じようとした、というから、李世民がせめて絵は残してやった、ということか。
2013-08-20 07:48:55太宗謂君集曰「與公長訣矣、而今而後、但見公遺像耳!」と旧唐書の列伝第十九の侯君集の伝にあるから、やはり「せめて絵は残しておいてやろう」ということなんだろうなぁ。
2013-08-20 07:54:46ほう、薛万均の伝にも「勇冠三軍」とあるな。三国志以降の史書には特に武勇に長けていた人を賞賛する言葉として「勇冠三軍」が出てくるが、それぞれの史書で誰に使われているのか、一覧を作るのも一興かな。
2013-08-20 08:16:21@skskmkh 旧唐書には「薛仁貴勇冠三軍、名可振敵」とありますね。稀代の驍将薛仁貴に相応しい表現です。
2013-08-20 08:34:44@rudel101 死なせたくなかったんでしょうな。群臣がみんなして処刑すべきだと言うんで仕方なく殺したけど、絵を残したのは太宗なりのあてつけだったのかも。
2013-08-20 08:01:37@ki84type4 侯君集は武勇を恃んだ傲慢な性格だったようですから、同僚からは受けが良くなかったのでしょうね。だけども李世民は功績を惜しんでいたからせめて絵は残そうと。仰るように群臣に対して「お前らの言う通りに処刑はするけど、功臣として顕彰し続けるよ」というのもあったのかも
2013-08-20 08:05:32@rudel101 確か下級軍人からの叩き上げですよねこの人。士大夫連中には受けが悪かったのかもしれません。太宗の反応からすると、なんか無遠慮で不作法だけど愛嬌のある人だったような気もします。
2013-08-20 08:38:00@ki84type4 ですね。最初は無学でしたが、兵隊から昇進するにあたって読書を初め、大臣にもなった、という人物です。李世民の部下には名門出身の人間もかなりいますから、そういった人には仰るように受けが悪かったのでしょう。
2013-08-20 08:40:53@rudel101 なんかこう、三国志でいえば魏延っぽいですかね。優秀な軍人で叩き上げで学が無く、そうであるが故に武功を誇るところがあって名門出の連中には嫌われてた、みたいな。
2013-08-20 08:43:13@ki84type4 南朝の曹景宗や隋の麦鉄杖のような「周囲に無学と思われているのだけども実は頭が良い」系譜に属しているのかもしれませんね。
2013-08-20 08:47:11@ki84type4 かなり傲慢な性格だったようですし、高昌攻めの際の略奪を咎められて獄に下されたのに納得していなかったようですから、尚更、不満がたまったのでしょうね。
2013-08-20 08:55:49とある酒宴の席で梁の武帝の前で詩を披露しあう、という催しがありました。周囲の貴族たちは曹景宗に恥をかかせようとしましたが、曹景宗は見事な詩を詠んで周囲を黙らせた、と言います。
2013-08-20 08:50:30また、麦鉄杖には「麦というのは珍しい姓だな」とからかって来た貴族に「豆と変わりありませんよ」(その貴族の姓は竇だった)とやり返した、という話があります。
2013-08-20 08:53:51ちなみに麦鉄杖をからかった貴族は竇威という人ですが、この人も決して人を妬むだけの人物ではなく、唐朝に参画して、礼制を定めるのに功績があった人です。
2013-08-20 08:58:13@sweets_street 竇威自身は書を好んでいた、と史書にはありますね。武の家の突然変異みたいな人です。
2013-08-20 09:04:23@sweets_street @rudel101 竇氏の一族はみな武勇を誇ったが、竇威ひとり文章をたっとび、書物を好んだ。内史令の李徳林の推薦を受けて、秘書郎に任ぜられた。諸兄たちは軍功により顕位についたが、竇威は閑職にあることが長かった。 bywiki とありますね
2013-08-20 09:02:34