幕末会津藩はどう見られていたか

大河ドラマ『八重の桜』をきっかけに幕末史の本を読み漁ってみたところ、会津藩の描かれ方に疑問を抱いてあれこれ考えてみたものです。
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itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

突然ですが、いまから連投します。お題は【幕末会津藩はどう見られていたか】。会津自身を含めた幕府方、また薩長などの新政府方という幕末の動乱の当事者“以外”の人々、つまり大多数を占めていた第三者から見た会津藩のイメージについてです。 #幕末史私見

2013-08-21 00:22:07
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

流れとしては、まず【幕末京都会津藩の政治・外交力】、次に【幕末会津藩の政治的立ち位置と行動】を説明し、最後にそこから導き出された【幕末会津藩はどう見られていたか】になります。各段は基本的にまず結論、そのあと説明という順番。 #幕末史私見

2013-08-21 00:22:41
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

では次から本題に。ツイート数は余談こみで40~50のあいだ。興味のない方は、恐れ入りますが文末のタグを使ってミュートする、あるいは(一時的に)リムーブしていただけると助かります。お手数をおかけしてすいません。 #幕末史私見

2013-08-21 00:23:08
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

【幕末京都会津藩の政治・外交力】 「ひじょうに優秀だが、その一方で臨機応変の対応力に欠けるため、定められた路線を推し進めるのが得意」 #幕末史私見

2013-08-21 00:23:28
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

優秀さの根拠は公用局の存在が大きい。京都守護職就任後すぐに設立され、藩士の身分や家格にとらわれない抜擢人事、懸案事項については徹底した議論を行い、全員の合意が得られるまで可否を決めないなど、(続く #幕末史私見

2013-08-21 00:24:28
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

続き)東国の古き良き時代の武士気質といったイメージとは裏腹の先進的な運営が行われていた。 #幕末史私見

2013-08-21 00:25:09
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

反面、東国の藩だったため西国諸藩との接点が少なく、藩士個々のレベルでも他藩の者と交際している人物が少ないことなどから、京都周辺から畿内、そして西国の情報を得る機会も能力も乏しかった。結果、行動の選択肢を増やせるはずのさまざまな情報を入手するのが難しかった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:25:31
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

この両者から、会津のもっとも得意とするのは既定の路線を推進し、計画、実行にまでこぎつけるところにあるといえる。この点ではかなり優秀であり、これを対立勢力から見れば「頑固で手ごわい」ということになる。 #幕末史私見

2013-08-21 00:26:18
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

【幕末会津藩の政治的立ち位置と行動】 「幕府と朝廷の間を取り持つ」→「幕府と朝廷の間に割り込んでくる他勢力を排除する」 #幕末史私見

2013-08-21 00:26:35
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

徳川家と幕府に忠実であり、かつ帝と朝廷も重んじていた会津にとって、両者が手を取り合って国内最高位の権威を確立し、全国がその威令に服するのが理想的展開。 #幕末史私見

2013-08-21 00:26:51
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

しかしそれを実現するには、朝廷に接近して発言力を確保し、国政に介入しようとする雄藩が邪魔になる。越前松平や尾張徳川などの一門はもちろん、薩長などの外様はさらに目障りだった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:27:06
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

その最大の標的になったのが長州。八・一八の政変では際限なく勢力を拡大し、暴発しようとしていたのを(やむをえなく?)薩摩と手を組んで排除。 #幕末史私見

2013-08-21 00:27:22
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

その後の嘆願に際しても厳しい対応を行い、禁門の変では御所防衛の最前線に立つ。さらに長州征伐でもやはり厳しい処分、またそれが実行されなかった場合の軍事攻撃を積極的に主張した。 #幕末史私見

2013-08-21 00:27:52
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

これ以外でも、たとえば雄藩や朝廷の意見に流されがちな一橋慶喜を、ときには厳しい調子で責めている。 #幕末史私見

2013-08-21 00:28:04
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

ちなみに、いわゆる一会桑政権における一橋は江戸の幕閣から常に疑いの目で見られており、じゅうぶんな支援を受けられなかったため朝廷や雄藩に接近して問題解決を図ろうとし、さらに疑われるという悪循環に陥っていた。 #幕末史私見

2013-08-21 00:28:34
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

【幕末会津藩がどう見られていたか】 「幕府と朝廷(幕朝)双方に影響力を持つ実力者」→「幕府と朝廷を誤らせた<君側の奸>」→「帝に弓引いた朝敵」 #幕末史私見

2013-08-21 00:28:53
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

キーワードは<君側の奸>。これは政治的権威の対象をできるだけ傷つけず、かつその行動を抑制あるいは反対するための有効なロジックなのだが、幕末においては帝と朝廷のみならず、幕府もその「君」に該当した。 #幕末史私見

2013-08-21 00:29:08
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

王政復古クーデターまで、国内の政治的最高権威が幕府と朝廷にあることは全国諸藩にとって自明の理。倒幕を目論んでいた薩長ですら、名目上は朝廷と幕府を等しく扱っていた。 #幕末史私見

2013-08-21 00:29:31
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

なぜかといえば、現在の権威構造と序列を否定することは、同時に藩自体の根拠すら否定することにつながるから。倒幕や王政復古を本気で唱えていたのはごく少数であり、その多くは攘夷激派に分類される一部の志士や下級公家だった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:29:50
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

つまり幕府と朝廷を結びつけ、両者に影響力を与えうる会津は、政局に対する異論反論を直接表明できない諸藩にとって、<君側の奸>と指名できるかっこうの条件を備えていたことになる。 #幕末史私見

2013-08-21 00:30:15
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

それでも八・一八の政変から長州征伐までは政局の中心にいたため「幕朝双方に影響を与える実力者」として見られていたが、そこに発生したのが孝明帝と14代将軍家茂の死去。 #幕末史私見

2013-08-21 00:30:27
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

両者がほぼ同時期というのは会津にとっても不運であり、その後幕朝ともに行われた政治的再編の流れについていけず、特に京都において会津に不利な状況が現出したのは大きなマイナスだった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:30:40
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

これにより、政治的実力のみならず対外的イメージの「実力者」も損なわれ、薩長ら倒幕派の勢力伸張に応じて<君側の奸>というイメージが前に出てくるようになった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:30:54
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

そして鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府方は新政府から「朝敵」に指名され、さらにかつての最高権威だった徳川家が早々に降伏謝罪したことで、会津の「<君側の奸>として幕朝双方を誤らせ、事態を悪化させた朝敵」というイメージはより強調されることとなった。 #幕末史私見

2013-08-21 00:31:11
itozaki_kei/イトザキ ケイ @itzk_k

もちろん、全国各地の諸藩がすべてこのようなイメージを実際に持っていたわけではない。しかし一般的に「幕朝双方に影響力を持つ実力者」と認められていたのは確かであり、それが新政府の中心となった薩長によって<君側の奸>、そして(続く #幕末史私見

2013-08-21 00:31:57