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no1hasgone @no1hasgone
.。oO(個別の因果関係の立証が困難な加害ー被害関係…確率的大量殺人…の救済は、「被害が起きた≒因果関係の立証、被害の認知」を前提とすれば原理的に不可能なわけで。「加害が発生した(被害者不定)」の段階で幅広く救済していかなければ、結局被害者の切り捨て、やり逃げとなるだけ)
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
↓これに関係する話は阪大の法哲学者・中山竜一さんが詳しい。彼は「認識=行為」連関が、因果関係認識による予測可能性を前提にした近代前期から、確率論的なリスクヘッジの時代である近代後期に移ることで、法のあり方も無過失責任を認定するような形に変容してきたことを論じている。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
続)以前は、中山竜一(2006)「リスク社会・法の支配・討議民主」という第六回東アジア法哲学シンポジウムでの発表論文がPDFでネット上に落ちてたのだが、もうない。Internet Archiveでも見つからなかった。もったいない。
くろぴよ @tkonai
↓ このPDFは入手できないようですが,中山竜一先生ご執筆の同テーマの論文なら,「リスク社会における法と自己決定」『現代法の展望』2004-5,もしくは,「リスク社会における公共性」『岩波講座 哲学10 社会/公共性の哲学』で読むことができます。おすすめ。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
続)以下、中山竜一(2006)「リスク社会・法の支配・討議民主」から引用。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用1)ここで仮に、因果関係の認識と自由意思の行使による介入による予測可能性の担保の時代をひとまず近代前期と呼び、大量現象の統計学的観察とその確率論的なリスク・ヘッジの時代を近代後期と呼ぶとすれば、偶然や不運を前にした個人の自己決定の様式およびそれに対応する法の判断形式は、…
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用2)その各々でどう定式化されるだろう。まず、前期近代、すなわち因果関係の認識と自由意思の行使を主体的に行う「理性人」の時代にあっては、とりもなおさず自己決定における諸個人の「注意深さ」が問題となり、事後的にその程度が裁判における帰責の根拠となった。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用3)すなわち、因果関係を認識し、自由意思でそれ制御する「注意深さ」の欠如こそが、責任を帰せしめ、損害賠償義務を発生させるための十分な理由となると見なされたのである。だからこそ、そこで要求される国家機能は、そうした個人主義的な帰責システムを単に背後から支えるだけで十分だと…
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用4)見なされたのである(夜警国家の一側面としての「法の支配」。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用5)これに対し、近代後期における自己決定で問題となるのは、一つには事前に集合的なリスクを把握し、その現実化の「防止(prevention)」のために何らかの措置を行うことであり、もう一つには、リスクが現実化した際の損害賠償に備え何らかの金銭的措置をあらかじめ講じておくことで…
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用6)ある。そして、これらはともに、統計学的知識や技術的手段を有する企業や行政の専門家の課題と見なされた。だが、これと較べると、一般の諸個人に可能なことは、行為そのものを差し控えるか、各種私保険の購入が中心となる場合が多いように思われる。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用7)すなわち、リスク回避のために専門的知識や技術を動員して積極的に働きかける専門家と異なり、諸個人にとって自己決定の舞台はリスクを取るか否か、そして、リスクを取る際は損害賠償に可能性に備えてどの程度のリスク・ヘッジを行うかという判断に限られていたのである。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用8)専門家と一般の諸個人のあいだでこうした違いが出るのは、そこに大きな知識の不均衡があるからであり、報告者には、これが近代後期を専門家主導の時代にした理由の一つであったと思われる。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用9)また、法制度のあり方に目を向ければ、こうした知識の不均衡は、リスクが現実化し、その帰責と損害賠償の行方が問われる際の司法的救済の道をきわめて困難にしてきた要因ともなる。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用10)だからこそ、労働災害を皮切りに交通事故、薬害、公害、製造物責任、医療過誤といったタイプの事故に関しては、挙証責任の転換や無過失責任制度の採用といった形で、普遍主義的な理性人を前提とする近代法原理を構造的に修正する必要が生じたのであり、行政による介に大きな期待が寄せられた
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用11)理由もここにある(「福祉国家」、あるいは「社会国家」)。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
続)このように近代前期(夜警国家)から後期(福祉国家/社会国家)への転換を論じた後、中山さんは、現在我々が直面している「リスク社会」での法と国家に議論を移す。リスク社会とは、過去の統計学的データへの参照も含め、専門的知識と行政的介入による制御の有効性が失われた段階。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用12)もし、リスク社会が直面しているリスクが、地球環境や食品衛生をめぐる諸問題に特徴的なように、過去の統計学的データへの参照を不可能とする従来とは異なる新たなリスク類型であり、その意味で、かつての「近代法」や「現代法」、ひいては…
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用13)旧来の「夜警国家」や「福祉国家」(あるいは「社会国家」)が前提とした「認識=行為」連関はもはや妥当しないとすれば、「法」や「国家」は、そうした計算不可能なリスクを前にして、何ができるだろうか。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用14)因果関係も統計学的蓋然性も明らかではない新たなリスクに直面するとき、「法」や「国家」はそれをどのようにコントロールできるのか。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用15)実際、このリスク社会の根底にある新たな認識論的枠組は、法の領域においても、新たな変化を引き起こしつつある。一九八〇年代以降、環境や健康の保護をはじめ様々な法領域に拡がりを見せている「予防原則)」という考え方が、まさしくそれである。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用16)リスク社会における「法の支配」の意味を考えるとき、こうした予防原則のあり方には多くのヒントが含まれているように思われる。そこで、これまでに検討を加えた過失原理と無過失原理、ならびに各々の認識論的枠組と対比する形で、予防原則の特質とその思考基盤に関して考えるところを列挙
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用17)してみたい。まず第一に、損害の原因と結果の関連の問題がある。予防原則が向かい合うリスクは、原因と結果の因果関係も、両者間の統計学的蓋然性も完全には立証できないような潜在的リスクである。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用18)…予防原則は、原因と結果発生の近接性を前提する過失原理や、原因結果間の統計学的連関に訴えかける無過失原理(と社会保険)とは全く種類を異とする、新たな不確実性と直面するものであると言わなければならない。
Hideyuki Hirakawa @hirakawah
引用19)第二に、損害の規模と性質である。予防原則が向かい合うリスクは、個人や比較的少数の被害者となる従来のリスクとは異なり、ひとたびそれが現実化すれば一つの社会全体、あるいは地球全体に壊滅的損害をもたらしかねないような甚大な規模となるものが多い。
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