関ヶ原の戦い 小栗さくら(さくらゆき)

さくらゆき さくらさんの関ヶ原の戦いについてのつぶやきまとめ
2
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

【関ヶ原の戦いその1】 慶長5年9月15日(旧暦)は、天下分け目の関ヶ原の戦いが起こった日。石田三成公ら西軍と、徳川家康公ら東軍は美濃国不破郡関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)で衝突しました。 西軍諸将は豊臣恩顧の武将が多かったものの、完全に豊臣VS徳川ではありませんでした。→

2013-09-15 13:34:08
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその2】 福島正則公など豊臣家臣中心人物も東軍に属しているため、三成公ら文治派と正則公ら武断派の確執が色濃く影響したと言われます。 西軍が敷いた鶴翼の陣は一見有利かと思われましたが、東軍への内応者(又は呼応者)が多かったので必ずしも有利とは言えませんでした。→

2013-09-15 13:45:37
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその3】 戦いの火蓋をきる機会を窺っていた福島隊。ところが抜け駆けした井伊・松平隊に先鋒を奪われ、福島隊は憤慨して宇喜多隊に突撃します。こうして関ヶ原の戦いが始まったのでした。 西軍最大の兵数である宇喜多隊には、福島・井伊隊らが突撃し激戦が繰り広げられます。→

2013-09-15 13:48:39
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその4】 そして笹尾山に布陣した石田隊は黒田隊・細川隊らと猛烈に戦い、大谷隊は京極隊・藤堂隊と、小西隊は筒井・田中隊とそれぞれ戦っていました。全体的な兵数は大きく差がない両軍でしたが、西軍は実際戦っているのは83,200人のうち半分以下だったと言われます。→

2013-09-15 14:02:18
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその5】 関ヶ原に参戦した人数については諸説あり、石高から計算されたものが中心であるため実際の人数は分かりません。 ただ、戦前に編纂された「日本戦史」によると、西軍が83,200人、東軍が88,890人であり、はじめから東軍の方が多かったことになっています。→

2013-09-15 14:17:32
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその6】 よく聞く東軍75,000というのは、南宮山への備えの人数を引くとそのくらいの数字になります。その場合西軍の南宮山も差し引かないといけないので、単純計算すれば南宮山隊を抜いて東軍74,860、西軍55,300となります。いずれにしろ東軍が多いことに…。→

2013-09-15 14:57:09
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその7】 開戦から2時間ほど経過し、三成公は参戦していない味方へ狼煙を上げ、応援要請をしました。西軍は実質34,000ほどで戦っていたものの、士気が高いため奮戦していました。が、人数に余裕のある東軍は入れ代わり攻め寄るため、軍勢を支え続けるのは厳しかったのです。→

2013-09-15 18:15:59
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその8】 けれど、三成公と一悶着あった島津隊は要請を拒否、南宮山の毛利隊・長宗我部隊は徳川軍に内応していた吉川隊に阻まれて参戦できずにいました。 正午過ぎ、徳川方の催促により松尾山の小早川隊が東軍に寝返り。これに応戦した大谷隊は少数ながら小早川隊を押し返します。→

2013-09-15 18:16:56
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその9】 そこへ脇坂隊ら4隊4,200が呼応して東軍に寝返り、大谷隊へ襲いかかります。激闘の末、平塚為広公らは戦死、吉継公は敗北を悟り自刃。 大谷隊を攻めていた東軍は宇喜多隊へと流れ、防戦を続けた宇喜多隊もついに敗走。続いて小西隊も敗走しました。→

2013-09-15 19:58:40
小栗さくら@講談社『余烈』発売中 @oguri_sakura

→【関ヶ原の戦いその10】 粘り続けた石田隊も嶋左近公ら重臣を失い壊滅。三成公は伊吹山方面に逃れ、残された島津隊は敵を中央突破して「島津の退き口」と言われる決死の覚悟の退却をしました。 こうして関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終わりましたが、各地ではまだ戦いが繰り広げられていました。

2013-09-15 20:51:09