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茂木健一郎 @kenichiromogi
連続ツイート第1036回をお届けします。文章は、その場で即興で書いています。本日は、昨日思ったこと。
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ぶう(1)昨日、小林秀雄さんの編集者を長くされた新潮社の池田雅延さんのお話を聞いていて、はっとした瞬間があった。それは、「小林先生は、若い時から、文章を売って生活する、ということをずっとやってこられた」という一言。なんだか、はっと衝かれたような気がして、考え込んでしまった。
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ぶう(2)池田雅延さんは言う。「最初は、中原中也から奪って一緒に住んだ、長谷川泰子を食わせなければならなかった。『様々なる意匠』でデビューして以来、小林先生は、ずっと、文章を売って食う、ということから離れたことは一度もない。」なんだか、凄い話だなと思った。
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ぶう(3)「売文家」という言葉からは、どちらかと言えば時勢におもねるとか、軽薄だとかそういうイメージが浮かぶ。一方、小林秀雄の文章はそうではない。『考へるヒント』などはまだしも、『本居宣長』などは、現代のマーケットから見たら、誰が買って読むんだ、というほどの本である。
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ぶう(4)それでも、孤高の芸術家と思われがちな小林秀雄が、文章を得る、という商業主義から一度も離れたことがないということは、表現というものの真実を表しているような気がする。というのも、若いアーティストなどと話していると、売れている作家を馬鹿にする傾向があるからだ。
茂木健一郎 @kenichiromogi
ぶう(5)「あんなのは芸術じゃない」などと、彼らは言う。そんな風に考えちゃう気分のようなものは、なんとなくわからないわけじゃないよね。じゃあ、売れない芸術って、何なのだろう。本当にいいものだったら、人々の心に届く、そう信じなくて、どうするというのだろう。
茂木健一郎 @kenichiromogi
ぶう(6)これは、作家の保坂和志さんに聞いた話だけど、保坂さんのお母さんの頃は、小津安二郎の新作は、毎年寅さんみたいな感じで封切りされ気楽に見られていて、帰ってくると、「笠智衆がまたバカなことをやっていて」とか笑っていたのだという。それがいつの間にか映画史に残る芸術になった。
茂木健一郎 @kenichiromogi
ぶう(7)『本居宣長』にこと寄せて言えば、結局、文章を書くということの本質は、「もののあはれ」に寄り添うということであり、それは、誰の心の中にでもある機微に則って文章を書くということであって、それが、「売れる」という意味での商業主義と対立するものではないことは当然かもしれぬ。
茂木健一郎 @kenichiromogi
ぶう(8)小林秀雄が、むしろ生涯敵視したのはいわゆる「学者」の文章だった。歴史で言えば、実証主義などという当たり前のことをくどくど言う。本居宣長が、古事記を読む時にとったアプローチを、大学の講壇学者が批判する時、人の心からも、真実からも遠いのがどちらかは明らかだ。
茂木健一郎 @kenichiromogi
ぶう(9)小林秀雄の文章は食わず嫌いで読まない人でも、その講演音声には心動かされることが多い。小林秀雄の持っている、「長谷川泰子を食わせなければならない」以来の烈しさは、誰の心の中にもあるから。芸術性と商業主義は両立するどころか一致することを、すべての若き表現者は銘記せよ。
茂木健一郎 @kenichiromogi
以上、連続ツイート第1036回「文章を、売るということ」でした。

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