- ttt_cellule
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@naoyamiyashita あ、北野はシネマガジネット創刊の頃にはボードウェルらが認知主義に傾倒している光景をある程度追ってたみたいなんですが、サーヴェイ書くかと思ったら全然書かずに、気づいたら映像論序説に結実していたんですよね
2013-09-17 15:23:35@naoyamiyashita 映像論序説は、序盤で作品内在的でならぬといった蓮實葛藤のパラフレーズされた再現、基本的に身体論に傾斜する点で蓮實再演に見えて、蓮實接近ぶりに逆に驚いた(オルタ蓮實路線とでも言うべき側面ゆえ評価したけど)
2013-09-17 15:44:19@ttt_cellule なるほど、そういう読み方がありましたか。『ゴタール的方法』も内在分析を信条にしていますが、また「見逃し/聴き逃し」は蓮實経由の概念だと知り(『映画の神話学』?)、それゆえ平倉もデジタル蓮實と捉えられるかと考えましたが、そのあたりどうお考えですか?
2013-09-17 16:09:17@naoyamiyashita 平倉もオルタ蓮實路線だと思ってました。いろんな理論を投入するタイプなのでオルタ拡大は結果的になだらかに蓮實解体に向かうだろうとの考えから支持してますが、残存するミクロな蓮實テーゼが足かせになる可能性もあるだろうなぐらいに漠然と考えてます
2013-09-17 16:11:43@ttt_cellule しかし人文学として映画を扱う場合、ある程度は内在的な読解にならざるをえないのではないでしょうか? それと「残存するミクロな蓮實テーゼ」を明確に切り分けるためには、tttさんのおっしゃるように蓮實の方法論を一度可視化する必要がありそうですね。
2013-09-17 16:24:07@naoyamiyashita 内在的だというのは実際に厳密に検証できるものなのか疑問があって、内在というのはしばしば単なる褒め言葉でしかないように思うのですが、その点どうなのでしょう。もう一つのミクロ蓮實は「身体への現れ」の傾斜です。
2013-09-17 16:26:36@ttt_cellule 前twの「内在的読解」はミザンセーヌ分析を想定していたため、この場合ショット単位で映画を見ることを前提としており、つまり画面内のものはすべて見えうる(分析しうる)という立場のことでした。私もこの立場には疑問があり、関心はイメージの残余(?)の方ですね。
2013-09-17 16:47:27蓮實および蓮實派の欲動と文体の絡み合いについてざっと人の話してみると面白がられるが、丁寧に記述してまとめるほどのやる気はないから、ざっくりとした記述のままブログ記事にでもしようかな…
2013-09-17 19:27:38記事に落とし込んだことは落とし込んだけども、誰が得するんだこんな記事? 「蓮實重彦について2」 http://t.co/h8Gk6dSvfn
2013-09-17 21:11:13人はその対象から離れたいからこそ、書くのだろうか、とか思い悩んだ。「蓮實について書いてみるのはどうですか」と言われるのが私はもう嫌なんだろうな
2013-09-17 21:15:29あ、テマティスムにかんするイノベーションという使命は別にこの記事ではやってない。蓮實について人と話してて出てきたものなので、動機はFAQみたいなものなのか。
2013-09-17 21:17:08「精神分析と現象学のもつれた系譜からヌーヴェルクリティークが生まれた」という批評スタイルは小説論にも流れ込んでる。たぶん00年代にはそれが物語工学論と表裏だった。:蓮實重彦について2 http://t.co/PGXh6M36Gy
2013-09-17 21:29:54@kasaikouhei ああ、記事末尾に前回の記事をリンク付しておきましたが、そこで東との対照から書いたのは、蓮實の手法から名人芸的手続き・見せ方を省くと、存外共通点はあるといった見解ゆえですね。
2013-09-17 21:42:27@ttt_cellule 東浩紀もさることながら、保坂和志の小説論が念頭にありました。解釈学的な読み込みをキャンセルして「ただ読めばいい」と宣言しつつ、文体や構文の運動を楽しめと言う姿勢で、作品の一回性を強調するあたりも同じ系譜なんだろうなと。
2013-09-17 21:54:30@kasaikouhei ああ、私はまともに保坂を読んだことがないので今まで言及したことがありませんでしたが、端々から見聞きするにつけ、蓮實亜種の印象が強いですよ。
2013-09-17 21:56:00@ttt_cellule その印象はありますね。小説の設計思想は複雑に作られてますが、そのわりに評論の姿勢がオールドスタイルなんだと気づいて驚いた覚え。
2013-09-17 22:05:42@ttt_cellule 過剰の予期の準備を支える精神分析的チューターという見立ては当たっている。蓮實神話成立の歴史的背景は、シネマテークで映画を見、見たものを記憶するという特権的な場に身を置く希少性にあり、この「経験」ができない多数者に彼の言説は「経験」の「原型」を与えたので。
2013-09-17 21:29:47ビデオであれ劇場であれ、視聴前・後でテキストを絡ませると効いたんじゃないかなあ、と思ってる。RT @hominis_nomine シネマテークで映画を見、見たものを記憶するという特権的な場に身を置く希少性にあり、この「経験」ができない多数者に彼の言説は「経験」の「原型」を与えた
2013-09-17 21:32:03@ttt_cellule 画面(ショット)に内在するものを見なければならないというかつてのシネフィル格率は、現在のデジタルアーカイブを前提にした作品受容状況によって、「では何を見たらいいのでしょうか」という逆説にさらされ、その理由を失っている(字数圧縮のため敬語を略してます)。
2013-09-17 21:35:02@hominis_nomine 眼前にないことが暗黙に複雑性やカオスを縮減させるよう促していたんですが、眼前にあるときその人為的操作が前景化して、「見よ/(同時に)秩序付け」の二重性が一層露見しているでしょうね
2013-09-17 21:39:47@ttt_cellule ウェブで古典を何度でも見返せる状況であの「過剰を予期」したチュートリアルは成り立たないと思う。蓮實言説は技術に制約された歴史的な文脈の中にある。ところで、tttさんの言う精神分析についてなんですが、蓮實言説を経ていない、映画の精神分析には肯定的ですね。
2013-09-17 21:39:17@ttt_cellule 眼前にある、が繰り返し見直せる、という意味だとすれば同意します。映像経験の平準化が起こり、作品は分析し尽くされる状況になっているわけです。この時、たとえば映画を「経験」することに意味があるとするなら、記憶の特権的な性格とはまったく別物になるはずです。
2013-09-17 21:44:52@hominis_nomine ボルジアさんがフッサールの過去把持の議論を映画経験から興味を持ってるのは、映画は想起の場において経験が形成されるような事後性(のみではないにせよ)と深く関わっているのでは、と見てるからでしょう
2013-09-17 21:46:38@hominis_nomine 「蓮實言説を経ていない、映画の精神分析」というのはどの点を指しているのかちょっとわからなかった。
2013-09-17 21:43:59@ttt_cellule tttさんが蓮實は自分の映画批評に精神分析からその手法を密輸入した、という趣旨の指摘をされるとき、密輸入される精神分析の方になんらかの価値を認めているのかな、と受け止めたのです。もちろん日頃のツイートも想定してますが。
2013-09-17 21:50:00