ニーチェとドゥルーズ、現代思想の可能性の中心としての。

昨今、ベルクソンの影響の強いドゥルーズ論が盛んだが、一方でニーチェとドゥルーズの関係をどう考えればよいのだろうか?
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志紀島 啓 @kay_shixima

最近出た二つのドゥルーズ論においてニーチェへの言及がほぼ無いことは何の徴候だろうか。

2013-09-20 14:27:46
Shigeo Hayashi @HAYASHI_twit

差異と反復』を中心に据えるのであれば、ドゥルーズ論でニーチェは欠かせないですね。《差異と反復》はつまるところ《力への意志と永遠回帰》の読み替えといえるでしょうから。@kay_shixima 最近出た二つのドゥルーズ論においてニーチェへの言及がほぼ無いことは何の徴候だろうか。

2013-09-20 19:02:17
Ayumu OKUBO @waschmaschine

@HAYASHI_twit @kay_shixima ニーチェは扱うのが厄介なんですよw それと、ドゥルーズをオーセンティックな哲学者に仕立てるために、ニーチェから切り離そうという欲望があるのかもしれませんね。

2013-09-20 19:09:36
Shigeo Hayashi @HAYASHI_twit

@waschmaschine @kay_shixima 個人的にはスピノザベルクソンよりもドゥルーズにおけるニーチェの重要性を強調したいのですが、大久保さんの今後に注目している理由もそこにあります(笑)

2013-09-20 19:19:44
Ayumu OKUBO @waschmaschine

@HAYASHI_twit @kay_shixima それは僕にはとっても荷が重すぎますw たぶんドゥルーズにとってはニーチェの哲学そのものだけではなく、「反時代的」というニーチェのアティチュードこそが重要だったのでしょうね。それはフーコーにも言えると思います。

2013-09-20 19:25:19
志紀島 啓 @kay_shixima

@HAYASHI_twit @waschmaschine RT<個人的にはスピノザやベルクソンよりもドゥルーズにおけるニーチェの重要性を強調したいのですが>←激しく同意です!

2013-09-20 19:22:39
Shigeo Hayashi @HAYASHI_twit

@kay_shixima @waschmaschine アティチュードのドゥルーズ的反復(変奏としての反復)というのはその通りでしょうね。Dzは哲学史家でも研究者でもなく概念の創造者としての哲学者だったのでしょうから。「反時代的」というのは「反全体的」にも通じるでしょうね。

2013-09-20 19:38:44
志紀島 啓 @kay_shixima

@waschmaschine @HAYASHI_twit ドゥルーズはニーチェのなかにある最も核心部分をネグっているはず、というのが僕の読みですが。まだうまく理論化かつ説明できません。

2013-09-20 19:27:30
Ayumu OKUBO @waschmaschine

@kay_shixima @HAYASHI_twit ええ、いろいろとオミットされている点はあると思います。奴隷制支持の問題とか。ただ、それこそニーチェを「反復」することが大事だったのだと思うのです。それはニーチェの哲学をそのままなぞることとは違う。アティチュードとはその意です。

2013-09-20 19:31:06
志紀島 啓 @kay_shixima

@waschmaschine @HAYASHI_twit 以前言ったことの反復ですが。樫村論文ってそこを指摘してるわけでしょ?

2013-09-20 19:29:04

樫村晴香氏の論文「ドゥルーズのどこが間違っているか?」
http://www.k-hosaka.com/kashimura/jiru.html

Ayumu OKUBO @waschmaschine

@kay_shixima @HAYASHI_twit あ、樫村問題ですか。確かに差異と反復あたりまでのドゥルーズには妥当すると思いますが、D&G以降のドゥルーズはニーチェを「反復」していると思いますよ。昔、浅田も似たこと言ってたの思い出しましたw

2013-09-20 19:33:10
Ayumu OKUBO @waschmaschine

@kay_shixima @HAYASHI_twit ちょっと樫村の問題設定を忘れてしまいましたが、ニーチェと同じ病まで共有しろというのはちょっと酷な気もw 僕はむしろドゥルーズやフーコーによって理論的に整理したかたちでニーチェが反復されたことはよいことだったと思いたいです。

2013-09-20 19:42:24
志紀島 啓 @kay_shixima

@waschmaschine @HAYASHI_twit フロイには神経症的全体性ニーチェには精神病的全体性がそれぞれあるが。ドゥルーズにはそうした全体性が無く、諸部分であると。

2013-09-20 19:35:50
志紀島 啓 @kay_shixima

@waschmaschine @HAYASHI_twit 単純に図式化すると。ベルクソン系Dzとニーチェ系Dzが対立していて。これは生物学vs法・言語学、自閉症vs分裂病、リトゥルネロvsチュケー、習得vs要素現象といった対立に対応している、と。

2013-09-20 19:52:13
Ayumu OKUBO @waschmaschine

@kay_shixima @HAYASHI_twit 遅レス失礼しました。その図式自体がよくわかりません、すみません。ドゥルーズがニーチェと異なるのは当然ではあるので、そこにどこまで生産的なものを読み取れるかでしょうね。

2013-09-20 22:30:37
志紀島 啓 @kay_shixima

ニーチェの問題意識を引き継ぐものとしての本来のポストモダンvs動物化する悪しきポストモダン。前者がスキゾフレニー・モデルであり、後者が自閉症モデルである。

2013-09-20 23:12:09

現状での報告は以下を参照。
「ドゥルーズ:最も潜在的な自閉症」
http://blog.livedoor.jp/kay_shixima/archives/52482541.html