どうやって〈死〉の喩えがまったくない、しかし「当然ながら」〈生〉の賛歌でもない詩を書くか。だなあ。
2010-10-04 03:01:06そもそも「ドゥルーズと詩」っていう組み合わせ自体が、あまり強くない。もちろんアルトーの例が特別だし、キャロルについてもジャバウォックの詩などがある。また、ランボーへの言及も重要。だが、ドゥルーズの文学論では明らかに小説が優位であると言わざるをえないと思う。
2010-10-06 00:16:41樫村晴香のイヤミによれば、ドゥルーズ哲学のエクリチュールはそれ自体「小説的」であって、スルスルと多くの主題をつなぎ包括していく「拡張性」と、その流れに快く揺られているときの「半覚醒性」がポイントであるという。
2010-10-06 00:20:35ドゥルーズは、ニーチェが永劫回帰体験を詩的表現で語るときの、その詩的リアリティをそのままに認めることができず、それを「説」明してしまう。だからダメなんだ、というのが樫村の批判であった。ドゥルーズには、詩的言語によって呈示されるものから目を背けているようなところがないか……。
2010-10-06 00:23:59ドゥルーズがどこまでアルトーの詩的言語について立ち入ったことを考えていたのか、よくわからない。だいたい、詩についてのきちんとしたテクスト分析をしていない。ともかくも、ドゥルーズにとって「詩的なもの」は、小説内における意味作用の逸脱において感知されているようであり、
2010-10-06 00:27:11しかし、ここ数日、僕は自動記述をやってみているのだが、体質によるとは思うけれど、これはけっこうやばい行為で、集中的にやるとかなり精神が不安定になり、怖い。これはどうしてなのかを、考えている。
2010-10-06 00:54:32立ち上がってくるのが(無)意味なのかイメージなのか、わからなくなる。(無)意味とイメージの関係って、なんなんだ?
2010-10-06 01:12:29ポーの嫌らしい方法的自覚、ブルトンの擬似的な反方法(しかし〈女〉に対する欲望の特権性がそのまま残っているわけで)……。
2010-10-06 01:25:16しかしともかくも、詩に限らず、芸術に関わる人は一回は、エドガー・アラン・ポーの『詩作の哲学』・『詩の原理』の嫌らしく明快な自作への方法意識をふまえておいたほうがいいわけで……。
2010-10-06 01:29:06ポーによれば詩の限定された長さって、探偵小説の「密室」と同じであるわけですよねえ。で、詩は短くないといけない。詩は緊張感を与えるもので、緊張感は持続しないから。長い詩ってのは語義矛盾である(逆に、もちろん、反ポー的な弛緩した長詩ということがそれゆえに構想しうるわけで)。
2010-10-06 01:31:36あ、他方で、一定のテンションの生成を、「差異と反復」的につづけるタイプの長詩もありうるか。でもそれもあんま長いと飽きちゃうよな。
2010-10-06 01:36:04生と死とか、対立関係を無理にくっつけたりすることは簡単だが、効果的。しかし人間的言語の効果でありすぎる気が。
2010-10-06 01:46:58ちょっとトリッキーなオススメの仕方を考えているんです。しかし、まずは、オススメする理由は単純です。詩は短い。ゆえに忙しい現代人の文学的滋養としてひじょうに便利である、ということ。僕、すごいせっかちなんですよ。だから美術が好き。一瞥+αでいいから。詩もそう。
2010-10-08 00:00:49超いいかげんなことを言います。いわゆる純文学の大作は、時間にもっと余裕がある時代の産物であったと思う。いまや、僕たちにそんな余裕はない。そのこと自体はもちろん問題です。労働時間を短くし、長い文学を味読できる社会にするべく工夫したほうがいいでしょう。
2010-10-08 00:04:01しかし、今日においては純とエンタメの領域横断が進んでいて、ある種の軽さ、フラットさ、仕掛けの妙などが売れる小説のポイントになっている。それと対応して、「現代詩の現代化」(というのも、いわゆる前衛的現代詩はもはや懐かしいテイストであるから)があるかというと、あまり活発でない。
2010-10-08 00:09:18詩的言語の音声的なノリ、リズムの部分、そして抒情性は、日本語ロックの開発以後、J-popに吸収されてしまった。日本語ラップの登場も大きい。そうした歌謡性を、詩の本来の姿と見ることはもちろんできるし、そこから現代詩を考え直すことは実り多いでしょう。が、近現代詩には別の側面もないか。
2010-10-08 00:12:35音声的なノリ以外の近現代史の部分というと、「エクリチュール」ということになり、つまり、「言語表現は言語表現である」ということの残酷な自由さ、ブランショなら「死」(=詩)と言うだろう言語それ自体の自己言及性の純化、ということがすでに歴史上のクリシェなのだが、それはそれで極端。
2010-10-08 00:15:52@masayachiba まったく正論だと思います。右翼ちっくないいかたになるかもしれませんが、戦場にもってけるものでもあったでしょうし、最悪自分の好きな一行を暗記とか。けどその一行をだすときのドヤ顔に照れてしまうのが現代詩が現代的でないゆえんかもしれないと漠然と思います。
2010-10-08 00:17:57あらためて戻りたいのは、やはりエドガー・アラン・ポーなんですよね。彼は、ミステリの祖である、つまりエンタメ小説のひとつの祖型を与えていると同時に、マラルメみたいな難解な詩に方法論的な基礎を与えた人でもあるわけで。つまり、ポー的文学空間においてエンタメと現代詩が並び立つはず。
2010-10-08 00:18:51@yy_sato 戦場に持っていける、暗記して、というのもそうですよね。小泉義之さんが、戦争をやめるには祈るしかない、少なくとも祈っている間には何もできないから、と言っている。僕は、祈っている=戦争の雨が止んでいる、そのときのcoeurのなかに詩の雨が降っている、とか言いたい。
2010-10-08 00:22:07