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【三国志】蜀における都護について

蜀において軍事の重要なポストとして都護が置かれた。 これまで、その都護がどのような職だったのかしっかり考えたことが無かったので、少し考えた。
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Jominian @Jominian

都護の役割についての解釈は、確かに難しいな。改めて考えてみるか

2013-10-13 14:47:05
Jominian @Jominian

根拠はまだなんとなくだが、蜀の都護は外軍の司令官のような気がする

2013-10-13 21:12:41
Jominian @Jominian

うーむ。都護は禁軍の指揮権を司る役職だったのかもしれん

2013-10-14 00:59:17
Jominian @Jominian

中部督、中護軍、中領軍、そして中都護の職掌を明らかにすれば、何か見えてくるかもしれない

2013-10-14 01:12:33

なぜ李厳が都護となったか、都護とは何か?

Jominian @Jominian

李厳は、中都護になってから光禄勲を加えられたので、この事例は、中都護が光禄勲の発展ということを示すことはできない。しかし、何らかの関連がある可能性は示す。諸葛瞻が羽林を率いたことも、羽林たけでは禁軍の指揮権を示すには弱い。まだ考えなければいけない

2013-10-14 13:00:29
Jominian @Jominian

最初に都護となった李厳は成都にいなかった。つまり、都護というのは、少なくとも李厳の頃には、成都にいなくても成立する職務だった。これだけだと、都護は地方軍に関する職務を帯びていたようにも思えるが、李厳は都護として内外の軍事を統括していたとある。どういうことか

2013-10-15 00:45:44
Jominian @Jominian

李厳は都護として内外の軍事を統括し、永安或いは江州に駐屯していた。また後主が即位すると、光禄勲を加えられた。光禄勲は禁軍を司り、職務を考えれば成都にいるべきであるが、江州の李厳に与えられ、その後も李厳が帯びていた。これは恐らく、李厳の実態に官職を合わせたのだろう。彼は禁軍を率いた

2013-10-15 00:48:54
Jominian @Jominian

李厳は恐らく禁軍を率いたが、なぜ禁軍を率いることとなったか?それは、彼が永安に呼ばれたからである。劉備は夷陵で敗れ、永安に留まっていた。劉備は、永安にて劉備と共に留まっていた近衛兵団を率いる人物として李厳を呼び寄せたのだろう。

2013-10-15 01:12:07
Jominian @Jominian

李厳は永安にて劉備より禁軍を率いる職に任じられたとして、なぜ都護という職になったのか?それは、劉備死後の李厳の職務を見れば見えてくる。彼は、中都護として内外の軍事を統括しつつ、永安に留まった。つまり、禁軍を率いながら、永安にて巴東の軍を率いることになったのだ。

2013-10-15 01:19:21
Jominian @Jominian

都護について、「内外の軍を統べた」という言葉に惑わされてしまいがちだが、この内外という言葉には、中軍と外軍という以上の意味はないと見るべきである。つまり、都護の李厳は、劉備より禁軍の指揮と巴東の地方軍の指揮を任され、それを表す官として、新たに都護が置かれたということだ。

2013-10-15 01:25:21
Jominian @Jominian

李厳の例を考えると、都護というのは禁軍と地方軍の指揮権を与える場合に置かれる職ということになる。禁軍は、都護以外に光禄勲などがおり、地方軍は地方の都督や太守、州刺史がいる。従って、都護というのは特殊な状況でない限りは置かれる必要はないし、置かれる場合は成都である。李厳は特殊だった

2013-10-15 01:30:40
Jominian @Jominian

蜀における都護とは、劉備がその生涯の最後に最大の敗北を喫し、成都に帰ることなく息を引き取ったことに由来する。呉との緊迫した状況において、成都で采配を揮う宰相の他に、永安で強力な軍を自由に動かせる存在が必要になったことが、都護という新たな職を生むことになった。

2013-10-15 01:33:45
Jominian @Jominian

後主が即位した後、李厳が江州に下がったのも、諸葛亮が北伐のため漢中に進駐するということ以外に、呉との講和が成立し、東からの圧力が緩和されたというのも理由としてはあるだろう。禁軍を率い、対呉方面司令官を担った李厳は、確かに政権No.2だったかもしれないが、諸葛亮とは並ぶべくもない

2013-10-15 01:45:04
Jominian @Jominian

李厳を例にして考え、蜀における都護という職について少し分かったので、今度は、これを敷衍して蒋琬や諸葛瞻について考えることとしよう。

2013-10-15 01:52:47

李厳は対呉方面司令官だった

Jominian @Jominian

蒋琬と諸葛瞻は措いといて、李厳の役割について深めるか

2013-10-15 12:34:52
Jominian @Jominian

李厳は諸葛亮に先立って永安に呼ばれ、尚書令を拝した。これは、皇帝劉備の、詔勅に関する機構を永安に設けるためだろう。また、自身の存命中に呉と再度先端が開かれた時に、李厳を司令官として、ある程度自由な裁量が与えられるようにという処置だと考えられる。

2013-10-15 12:41:29
Jominian @Jominian

李厳は紛れもなく対呉の司令官として都護となっていた。これは、当時の劉備の評価として、丞相諸葛亮を除き、呉と渡り合えるのが彼だけだったということだろう。また、彼は建興八年に漢中に赴いているが、これは、孫権即位に伴い陳震が使者となり、呉との対立要因がある程度解消されたということだろう

2013-10-15 12:57:15
陸合 @Rieg__Goh

三国で都護の内容が違っていてわからんね。曹洪の都護将軍も都護と無関係の雑号将軍に過ぎないようだし。

2013-10-15 12:35:06
Jominian @Jominian

@Rieg__Goh 都護にしても都督にしても、制度として明確に確立してから三国が建国されたわけではないですからねえ。特に、蜀や呉は、後漢を直接継いでいないので、後漢の制すらしっかり踏襲していなかっただろうし。都護も、西域都護を踏襲したわけではなく、名前を借りただけだと思ってます

2013-10-15 12:44:44
陸合 @Rieg__Goh

@Jominian なるほど。権威・権限のある役職名なので、内容は全然違っていても、李厳に一定の力を持たせるために名を借りたんですね。

2013-10-15 19:32:56
Jominian @Jominian

陳震は劉禅即位後に尚書令になっている。これは恐らく、李厳の尚書令を解任し、方面軍司令官としての職務に限定させるための措置だろう。陳震がすぐに衛尉に移ったのも、尚書解体の過程だったということと、尚書令就任自体が李厳の権力を奪う目的だったということが理由

2013-10-15 13:01:08
Jominian @Jominian

内軍という表現自体、禁軍のことであるというのが、宋書百官志から分かる。李厳は中外軍事を統べたのではなく、内外軍事を統べたので、禁軍と地方軍という範囲の指揮権だったということだ。

2013-10-16 11:51:59

督中外軍事とは

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コメント

サガ・アイファール @ifalru_saga 2013年10月15日
諸葛亮が李厳を「陸遜に匹敵する人物」と評したのも、緊迫した関係の呉に対するブラフと国内の将兵達を安心させる意図があったと考えていいのですかね?
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Jominian @Jominian 2013年10月15日
ifalru_saga それは演義の話だったと思うので、どちらかというと物語の都合が大きいように思えます。
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Jominian @Jominian 2013年10月16日
まとめを更新しました。
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