「ある自主避難者の証言」2013年10月5日新発田市きやり館
「ある自主避難者の証言」 〜4歳の子供とふたりで、今年1月に福島中通りから新発田市に自主避難してきているお母さんのお話です。 2013年10月5日(土)pm7時から〜 新発田市きやり館あやめの間
2013-10-16 22:28:06私は、今年1月、福島県中通りO村から4歳の子供と二人、新発田市に自主避難してきました。O村二は、祖母、父、母、兄を残してきました。 私のふるさと、福島県安達太良郡O村は、福島第一原発のほぼ真西約40キロのところに位置しています。
2013-10-16 22:28:23盾のように連なる安達太良連峰西側の緩やかな扇状地の上に拓かれた村でした。扇状地に湧く豊かな水ときれいな空気と東南方向から降り注ぐ日光を利用して、米、野菜を始めとする農業が栄え、農村としては珍しく、わずかずつですが、人口も増えていました。
2013-10-16 22:28:41他のところはみんな合併してしまいましたから、安達太良郡で今でも村として遺っているのはO村だけです。私はそのことをとても誇りに思ってきました。でも、今は飯館村に次いで汚染が激しいところです。 これから私がお話しすることについては、人によって意見の相違があり、絶対だとは言えません。
2013-10-16 22:28:59あくまでも、私個人の見方だと思って聞いてください。 私は、原発や放射能のことについてほとんど何も知りませんでした。ただ、以前、私が勤めていた会社の上司が脱原発だったこともあって、他の人よりはほんの少しだけですが、意識していたかもしれません。
2013-10-16 22:29:17その上司がよく言っていたことは、「ベントという言葉を聞いたら危ない。すぐ逃げろ!」でした。でも、私がその言葉を聞いたのは、事故が起こってから数ヶ月も経ってからでした。
2013-10-16 22:29:34私が引っ越しを考えた最初のきっかけは、3月12日に1号機にヘリコプターで放水しているのをテレビで見たときで、それから、汚染水をオガクズで止めるとか言っているのを聞いて、ますます怖いと思うようになりました。
2013-10-16 22:29:49でも、震災で水道もガスもストップしていたときは、みんな外で行動していたわけですよね。 3月15日から25日まで、私は群馬県の親戚の家に避難していたのですが、そのとき、赤城山が真っ黄色になっているのを見て、とても不気味に思ったことを覚えています。
2013-10-16 22:30:04後で聞いたことですが、花粉というのは放射線を浴びると大きくふくれるのだそうです。あんなに離れたところにも放射能は届いていたのですね。 今でも後悔していることは、なぜあのときすぐに引っ越さなかったかということです。
2013-10-16 22:30:22そうすれば、子供を被爆させないですんだのにと思うと、とても罪悪感を感じます。 すぐに決断できなかった理由は、私がそのとき仕事のために1年間の在宅業務の研修を受けていたからです。私はシングルマザーなので、自活するためにどうしても収入が必要でした。
2013-10-16 22:30:36放射能への恐怖はありましたが、どこか認めたくないという気持ちもあり、少なくとも1年はがんばろうと思ったのです。 でも、その頃から子供の具合がだんだん悪くなっていきました。病院に連れて行くと、風邪と診断されました。
2013-10-16 22:30:52でも、いつまでたっても咳が止まらず、だるそうにしており、反対に悪くなっていくようでした。 あるとき、除染の作業をしていた人から「ここは口で言えないほど汚染されている。俺ならこんな所には絶対に住まない」と言われました。
2013-10-16 22:31:06役場ではガイガーカウンターの貸し出しをやっていましたが、役場の人から「地表から1メートル以上離して、30分以上そのまま立っていなければいけない。それにあくまでも目安で正確な数値は出ない」と言われました。
2013-10-16 22:31:21妹夫婦が、すでに新発田に引っ越していて、電話をすると「今すぐ、引っ越しておいで」と言います。反対に、祖母や父母や兄は「大丈夫だ。神経質になるな」と言いました。
2013-10-16 22:31:43私は、シングルマザーで、そのことで迷惑をかけたし、そのぶん世話をするねと約束していたので、それからだんだん放射能の不安を家族に話せないような雰囲気になりました。
2013-10-16 22:32:00特に、祖母は幼稚園バスまで子供の送り迎えをしたりして、それをはりあいにしていましたから、私は子供の体のことと板挟みで両方を裏切っているように感じました。 村の中で、だんだん放射能について口に出せない雰囲気が広がっていきました。
2013-10-16 22:32:15うっかりそのことを、友人に話して、「そんな気弱なことでどうするの」と怒られ、人間関係にもヒビが入っていくような気がしました。 国は、除染、除染と言っていますが、それは除染して土を保管しておける休耕地のような空き地を持っている家の話です。
2013-10-16 22:32:30私の家は、そんな余分な土地はありませんから、除染はしてもらえず、そのままにしてあります。風の強い日には線量計の数値が跳ね上がっていました。 子供は、もともと外で遊ぶのが好きな元気な子で、ドングリとか草とか石ころとか大好きなのですが、「遊んじゃだめ!」と叱るのが辛かったです。
2013-10-16 22:32:43家族は家で食べる野菜を全部作っており、それを子供に食べさせるのが楽しみです。その頃から、畑の周りのタンポポがみんな変で、50株も60株も同じ所から出て、その茎が全部くっついて異様に太くなってそこに見たこともないような大きな花が咲いて、気持ちが悪かった。
2013-10-16 22:32:57田んぼに稗が大発生しました。あんなことは今までありませんでした。 野菜も今まで見たこともないような形のものがとれるようになりました。桃、トマト、トウモロコシ、タケノコとかそういうものを、巨大なシイタケとか食べさせようとするんです。
2013-10-16 22:33:12家族は子供に食べさせるのが楽しみなので、食べないととても悲しそうな顔をするんです。干し柿なんかも、食べさせられました。他の家では、野菜や食物を作るのをやめて、花の栽培に代えたところもありますが、私の家族は頑固で、食べ物を作り続けました。
2013-10-16 22:33:26そのころ、保養説明会というのがあって、そのなかで、放射能に危険があるので、干し柿は食べない方が良いというお話がありました。私は、このとき、初めて「ああ、放射能のことを心配しても医院だ」と思って、そうしたら、知らないまに涙が出てきました。
2013-10-16 22:33:37それで、形の変な野菜の放射能を計ってもらおうと思って、役場に持っていくと、「役所が安全だと言ってるのが、わからないのか!母親がそんなことでどうするんだ!」と、逆にどなられました。結局、持っていった野菜は計ってもらえませんでした。
2013-10-16 22:33:55放射能は禁句という空気はますます強くなり、幼稚園では外遊びを奨励、給食の食材も地元のものを使うという信じられないことが起こるようになっていきました。 子供は気がつくといつも風邪を引いた状態です。鼻血をしょっちゅう出すようになり、いつも体がかゆいと言って掻いていました。
2013-10-16 22:34:08桜祭りのときに、子供が裸足で水たまりに足をつっこんだんですが、数日経つと、足が腫れて膿がたまりました。医者は「風邪ではこんなふうにならないなあ」と言いましたが、放射能の影響については質問することができませんでした。病院でも、放射能を口にすると、鼻で笑われるような雰囲気がありました
2013-10-16 22:34:29