- yoshihirohorii
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「知る」というか「分かる」ときには、いつも、その「分かる」まさにその瞬間のほんの少し前に、必ず予兆がある。言い方を変えると、何かを「分かる」時にはいつも、必ず、本当は、その瞬間の少し「前に」もう分かっている。この直前の「もう分かっている」状態を経験して初めて「分かる」状態に至る。
2013-10-26 00:17:11昨夜カミさんが寝たあと、一人で久々にインランド・エンパイアしてみたのだが、やっぱり私にはビシビシ来る映像シークエンスだ。裕木奈江が出てくる前後でちょっと寝落ちしたがたまらん。これ、分からない分からないって言ってる人は、たぶん何かの説明文を読むかのように鑑賞しちゃってるんだと思う。
2013-10-26 09:57:55自分が知らない国の言葉で話しかけられたりした経験があれば想像付くと思うけど、相手が何を言っているのか、その「ことば」の意味を理解しようとしたって無駄だ。でも、表に現れる「ことば」の向こう側、つまり相手が何を考え、何を伝えようとしているのか、を推測することは出来る。
2013-10-26 10:01:19極端な話、それが出来なかったら、赤ん坊や動物とコミュニケーションを取ったりなんて出来る「わけがない」。でもみんなやってる。だから本当はみんな出来るはずだ。では何故インランド・エンパイアを観る時にはそれが出来ないのか?何故それが出来なくなるのか?理由は実に簡単なことだと思う。
2013-10-26 10:04:03それは、相手(この場合は登場人物かな?)と自分との間に「ことば」が介在していて、しかも、まったくおこがましいことに、その「ことば」を、自分は理解しているつもりでいるからだ。要するに、相手のことばを、勝手に自分自身が使う言葉と同種のものとして受け取るから、途端に理解が出来なくなる。
2013-10-26 10:07:28相手が何を考え、何を伝えようとしているかを推測する行為は、相手の立場に立って感情移入することはなんかとは全く違っている。これは実によく間違われているけれども、この推測は分析によってのみ可能になるもので、感情移入とはむしろ正反対だ。
2013-10-26 10:12:48感情移入では、相手に自己を投影する。これは先の、相手が使っている「ことば」を、自分が使っている「ことば」と同種のものして受け取ること、に通じている。これをやっている時点で既に相手の在り方は封殺されている。
2013-10-26 10:16:54要するに、感情移入が起こるプロセスでは、相手はあくまできっかけとしてそこにあるだけで、実際には全く存在しないも同然だ。映画やドラマや演劇を観て、登場人物に感情移入している時、その人が考えているのは、その登場人物のことではなくて、自分のことである、というように。
2013-10-26 10:19:28映画やドラマ、演劇などは基本的にそれで良い。というか、これらの表現が基本的に架空のものであることには役割と効用がある。
2013-10-26 10:26:13さっきも書いたように、観客が登場人物に感情移入し、その結果、観客の関心事が登場人物から自分のことへ移行する時、彼ら消え去る人々(=登場人物)は、架空の存在であるからこそ、この移行は「正しく」機能する。だから本当の問題は、いわゆる「ドキュメンタリー」において発生する。
2013-10-26 10:27:39ドキュメンタリーに登場する人物は、基本的には「実在する人々」ということになってる。にも関わらず、先と同様の感情移入のプロセスにおいては、観客の関心事はやはり自分のことへ移行してしまう。ここで「実在する人々」は消されてしまうワケだ。これはドキュメンタリー表現に付き物の危険な罠だ。
2013-10-26 10:31:21それが、映画、ドラマ、演劇などのフィクションにおいては、登場人物と、彼らの置かれた状況が、架空のものであるが故に、観客に対して「正しく」機能するわけだ。
2013-10-26 10:33:39インランド・エンパイアはそのどちらとも違っている。もちろん、他のフィクション作品を観るのと同様に、架空の登場人物による架空の物語として観るのが、たぶん普通の観方だと思う。しかしそれだと、最初に書いたように、何かの説明文を読むように観てしまって、ただただ混乱するだけだ。
2013-10-26 10:36:56では、インランド・エンパイアを、ある種のドキュメンタリー作品として鑑賞したとしたらどうだろう?さっきも書いたけど、ドキュメンタリーには危険な罠が潜んでいる。この罠は、それがドキュメンタリーである、まさにそのことに起因している。これは構造的なものであって、絶対に避けられない。
2013-10-26 10:39:16でも、架空の登場人物を用いた架空の設定によるドキュメンタリーだとしたら、観客が自己都合で勝手に登場人物に感情移入し、そして登場人物の存在を消し去るそのプロセスにおいて観客が一体何を得るかというと、要するにこのやり方を通じて初めて、観客は真にその世界の住民になり得る、というわけだ。
2013-10-26 10:48:02以前から、自転車の快楽について、機会がある度に書いたり話したりしてるけど、ここに再録すると、自転車は、乗り手が存在しなければ成立しない乗り物で、乗り手は制御系と駆動系の両方を担う。要するに、乗り手は、自転車という仕組みにガッチリ組み込まれている。これが自転車の特有の快楽を生む。
2013-10-26 10:53:12インランド・エンパイアの作られ方は、この自転車の例と非常に似ていて、観客が、自分自身の役割を担うことで初めてそれとして機能するように設計されているように思える。この役割の中で、登場人物の誰かを自分とリプレイスする(感情移入)のでもなく、一つの環境として自分自身がその一端を担う。
2013-10-26 10:57:15似たような表現に実はゲームがあるけど、ゲームでは、プレイヤーの役割は極端に限定されていて、自分が環境の一端を担うというよりもむしろ、その奴隷にされる。ゲーム好きというのは、だから無意識の「自発的囚人」なわけだ。インランド・エンパイアでは、特定の役割は用意されていない。
2013-10-26 11:02:09ここまでの話はよほど頑なな人でなければ、たぶん話として理解・共有可能なんじゃないかと思ってる。問題はじゃあインランド・エンパイアは「一体何のドキュメンタリーなの?」という謎だと思う。実はこれを一言二言で言うのは非常に難しい。でも例のジャガイモの話はそれを代理表象している。
2013-10-26 13:08:37参考 : 例のジャガイモの話
私が「ウンコになってしまうジャガイモ」の話として、映画「インランド・エンパイア」を理解した時の、本当に一番最初に書いたメモ http://t.co/9RbjlSYLAB この時のメモの方がより説明的な感じがする。今日話した通り、私はこういうことを考えながら初回を観た。
2013-10-19 23:19:10以上
それと、一番最初のやつ https://t.co/wzoaXN20JG なんかは、インランド・エンパイアを経て初めて辿り着ける認識だったりする。これ、わりと誰でも共感してもらえると思うけど、このこと自体のドキュメンタリーなんて、インランド・エンパイア以外に観たことがない。
2013-10-26 13:17:04あえて挙げると、いつも宮城大の授業で観せてる、同じデイヴィッド・リンチの監督のツインピークス・パイロット版での一連のシークエンスがある。
2013-10-26 13:18:47リンチは、この種の、人間の知覚のプロセスそのもの、仕組みそのものについて、途轍もなく繊細でかつ精緻な理解があると思う。私は彼のこの、人間に対する精緻な眼差しと洞察とを、ほとんど「科学的だ」と思う。
2013-10-26 13:21:52