メモ

まとめました。
政治
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西崎憲 @ken_nishizaki
批評の世界ってどうもよく分からないのだけど、その作家や作品にないものを指摘して、ないことを批判するのだろうか。そうだとすると、なぜあるものについて語らないのかと思うし、それだとただ作品や作家をだしに、ただ自分の欲望の在りようを展開させたいだけのように見えるのだが。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki 批評も「小説」などと同じように、色々なスタイルがあります。作品にないものを指摘して、こうあるべきだ、というスタイルも、批評の歴史の中では目立つのですが、そうではない、作品そのものの良さや質それ自体を追及するスタイルもあります。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki 「こうあるべきだ」という批評は、芸術はこうあるべきだという趣味の問題の場合もあるし、社会思想が先にあって、理想社会建設のためにはこれを書け、式の「知識人が啓蒙」パターンもあります。それに対し、小林秀雄は、猛烈に抵抗しました。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki 「こうあるべき」型の批評と、「作品それ自体を見よう」型の批評は、常に争ってきたようにぼくは理解しています。そらく、それが、今でも続いているのではないかと思います。
西崎憲 @ken_nishizaki
@naoya_fujita ちょうど反省したところでした。「SFって」などという言い方を普段から嫌っているくせに自分でやってしまいました。 正確に言うとまさに「作品にないものを指摘して、こうあるべきだ」というのがあまり好きではないのですね。
西崎憲 @ken_nishizaki
@hako321 わかんないんですよね。単純に分からない。たぶん性格の問題かなあ。面白い批評もたくさんあるのだけど、それはたしかに作品生の高い批評ですね。オリジナリティーももちろんある。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki そうですね、ぼくも自分の批評のスタイルとしては、「これが理想だから、こう書くべきで、この作品はこれがない」式のやり方はあまり好きではないですね。現在では、そういう「指導」型の批評が多いわけではないのですが、やはり、インパクトとして目立つのでしょうね
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
しかし、「批評」の歴史を見てみると、戦前、戦後を通して、社会思想や哲学を根拠にした、「指導」型の「批評」というのが幅をきかせていた時代が長いので、批評といえばそういうもの、と思われてしまうのも仕方がないというか、根拠があることはあるのよね。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki 小林秀雄の名前を出したのは、批評というジャンルを、魅力的な独自のジャンルとして確立した人、としてですね。彼は、そういう「指導」型の批評を批判して出てきたんです。書いたものを読んでも、ないものねだりはあまりしていないんです。
西崎憲 @ken_nishizaki
@naoya_fujita 正直にいうと、「こうあるべきだ」型批評は作者からみると、「えーと」みたいな感想しかでてこないですね。でも、だから価値がないとは言わないし、それどころか「作品それ自体を見よう型の批評より、元気がよくなるんで、みんな喜んだりしますね。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki ぼく自身は、批評の方法論として、「作家・作品の個別性・特異性を尊重し、論ぜよ」という教育を受け、可能な限りそうしようと努力しているのですが、それは一作品・一作家ごとに、価値観と理論を創作するみたいな、労多い割に目立たない作業になりますね。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki だから、割と単純な二項対立なり、構図なりを作った方が目立つし、盛り上がるということ自体には、内心忸怩たる思いを持っていたりします。忸怩たる思いを持ちながら、それに乗ることもあるのですが。
西崎憲 @ken_nishizaki
@naoya_fujita なるほど。そういう「指導」型の批評がどうして出てきたか、背景に興味がありますね。何となく批評家のほうが作者より偉い人というのは、私もずっと持っているような気がします。「学」に近いからかなあ。作品は「学」じゃないですからね。
西崎憲 @ken_nishizaki
@naoya_fujita あ、そうですね、「一作品・一作家ごとに、価値観と理論を創作するみたいな、労多い割に目立たない作業になりますね。」まったくその通り。めちゃくちゃ大変。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki 共産主義・社会主義の理念が今よりずっと強く信じられていたことは要因の一つかと。ある理想社会があり、それは「科学的」であったり「哲学的」な基礎付けのもとに正当化される。芸術も、そこを目指す戦いに従事しろ、という論調が強かったんです。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki 「毛沢東が評価したから魯迅はえらい」「毛沢東に評価される文芸を目指そう」みたいな当時に書かれた批評を読むと、ぼくもぎょっとしますので、よくわかります。「弁証法的唯物論」に沿って小説は書かれなければならない、とかも、ぎょっとしますね。
西崎憲 @ken_nishizaki
@naoya_fujita でも、共産主義、社会主義だけですかね。「評価」という行動そのものに、価値体系が隠されているので、最初から上から目線になるのは避けられないような気がしますね。評価は利害にも通じるし経済にも通じていく。 批評をするためにはまず評価軸が必要ですよね。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
.@ken_nishizaki ぼくは、個々の創作は、既存の価値体系に対する異議申し立て、あるいは新しい価値の創造だと思っているので、既存の価値体系を重視するか、その作品の持っている「価値体系」の更新可能性(の種)を重視するか、という態度の違いもあるかもしれません。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
ちょっとメモ書き程度に、先日書いた「指導」的批評について、書こうかなと思う。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
まず最初に、ぼくは「指導的批評」が、ダメとは言えない。言うと、それも「指導」になってしまうから。ただ、好きではない、とは言える。けど、すべての「指導」がダメとも言えない。だからここでは、自分がなぜ「指導」的批評を「書けない」のかを書こうと思う。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
他人を「指導」するためには、何か「正しい」ことを知っていなければならない。特に「政治的批評」をこの場合に問題にするけれども、様々な社会思想があり、様々な「科学」がそれぞれを正当化し、様々な哲学の流派がそれぞれを基礎付けして……その中で、どの政治思想が「正しい」と確信できるのか。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
ある政治的立場があり、それを指導する形で批評するためには、なんらかの思想が「正しい」と確信を持たなければならないはず。しかし、そんな人を指導するに足るような「思想」を、どんな根拠や確信によって持てるだろうか。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
「科学」なり「権威」なり「哲学」なりで「箔をつける」「知の権威でドスを利かせる」ことはできる。けど、「何が正しいのか」に関しては、ほとんど無限の選択肢の中で、「正当性」の「正当性」が全くない、あるいは相対的であるかのような無根拠の中にいる感じがする。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
……よくこんな世界の中で、人は、思想や政治的立場を(無意識にせよ)選べるものだと感心するのだけれど、生活者としてのぼくも、とりあえず何かは選んでいるはず。しかし、理屈としてはどれが正しい、どれが指導的あるべきだ、と自信を持って言えることは本当に少ない。
藤田直哉@震災文芸誌『ららほら』 @naoya_fujita
「様々なる意匠」ではないけれども、様々なる思想があり、様々なる正当化の方法があり、様々なる理論があり、様々なる価値観がある。このうちのどれかを「盲信」する能力がないとすると、無数の価値観を同時に脳で走らせて、結果、判断をなんとかひねり出す必要がある。無根拠をベースにして。
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