- tsukushi_k
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マイネ略を読み終わる。面白かった。何が面白かったって運命を操る者、則ち後期クイーン問題的真犯人の動機を想像するのが楽しい。ある意味でホワイダニットとして読めるのではないか。無論それは行間から想像するしかないのだけれどね。あと子供達の描写が秀逸。特に風格があるのは遊びのシーン。
2010-10-11 23:32:52まあメタ的犯人を後期クイーン問題というのかはまた別かもしれないけどね。ともあれストレートプレイのつくしさんは大変新鮮であった。弟子の名前を付けられた子供たちの群集シーンをよんで何とは無しにポーの一族を思い出した。金髪のマリアから黒髪のナザレの大工が生まれるかはともかく。
2010-10-11 23:37:12マイネ略続き。キモになるトリックつか伏線自体はまあイントロからすらすら読むとだいたい想像がつくような王道展開なんだけど、多分含蓄があるのはそのようにしたことの意味すなわちホワイダニットだと思うので二読目以後も楽しめるはず。卿の悪意は何処から来て何処へ去ったのかということも含めて。
2010-10-11 23:48:19まずはじめに、地理・文化・宗教についてのツッコミが無効化されていることの理由から。悪いけど土筆さんのツイートだけを根拠としてそのようなツッコミが無効化されるのではない。作中作が正史ではなく明確にフィクションであることがうたわれているためにツッコミは無効化されるのである。
2010-10-12 01:57:54特に宗教については明確だ。語り手はアンチ・クライストであるからキリスト教の各宗派についてのディティールにこだわらないはずだ。途中で出てくる神父の語りはきわめてモダンな考え方である(旧教の役職名『神父』であるのに!)これはつまるところ、キリスト教への敬意は主眼ではないと考えてよい。
2010-10-12 02:03:55つまりこれは作中の『本当の過去』ではないことを示しているのではないか。レミリアは姉でフランが妹。その設定は覆らない。ではなぜ、あのあれ、が起きたのか。はっきり言えば、何のために誰のためにこの物語はかかれたのか。本当にこの物語は悲劇なのか。
2010-10-12 02:09:51またこれは後でちゃんと調べたいが、山羊と麦と葡萄が同時に算出するような東欧の国は地理上本当に存在するかどうか。誤謬が深ければ深いほど、この物語の位置付けが語り手にとってどのようなものであるのか、分かるからだ。○○レミなのか○○フラなのかカプ厨的に譲れない点が分かるのである(えー
2010-10-12 02:21:13ジプシーが金髪である時点で『このものがたりはフィクションです』とあるようなものなんだけど、それすらも恐らくは意図的な設定なのであるからして素直に読むことを阻む巧妙な罠なのである。
2010-10-12 02:24:11なんかもう、めがねさんの誤読ツイートが申し訳ないくらいに素晴らしいな… もちろんつくしとしては、読解ツイートについて、どこまで作者が意図していて、どこまで作者が意図していないか、どこまで作者の想定範囲で、どこからそれを逸脱した読みか、などについて言及することなどございませんとも。
2010-10-12 03:08:31というわけでマイネ略の誤読続き。夜中に言及したようにフィクション中の設定の正史からの逸脱や不統一或いは誤りは意図的なものか、語り手があえてこだわりを持たなかったものである、という読み方をすると、エラー率から語り手のこだわりポイントを分析し直すことが出来る、と考えられる。
2010-10-12 07:40:17例えば名前。モブキャラの名前は東欧の土地の香りがしない。フランスかイギリス風の読み方になっている。これはつまり、この作中作の語り手が東欧をよく知らないか、東欧である必要性をあまり意識していないためではないか。産出する作物の話と合わせて共にエラーの一例ではないか。
2010-10-12 07:44:32ところでマイネ略というタイトルはドイツ語であり訳すと『わたしの小さな怪物』。何とは無しに愛を感じる。これは誰かが庇護するものへの愛に関する物語だと信じることが出来るがそれはともかく、裏表紙側にはギリシャ文字が書かれている。イギリス、フランス、ドイツ、ギリシャ……皆、西ヨーロッパだ
2010-10-12 07:50:12つまりこれは、ヨーロッパならどこでもよい、ととらえて書かれているか、さもなければ語り手が西ヨーロッパを旅するものであった可能性がある。多分前者なんだが後者として誤読するとそれはそれで面白いはず。
2010-10-12 07:53:07さて、マイネ略の誤読続き……の前にこの誤読の前提条件。ルール1、初読時に可能な読解であること。ルール2、リファレンスは出来るだけ使わないこと、ルール3、全ての設定に意味があるのだと錯覚すること。
2010-10-12 09:02:32前述の通り、この作中作はお伽話であって文化的宗教的リアリティを意図的に排除したものである、という前提であるならば、この物語の悲劇性はどこにあるのか、ということについて。奇妙なことにこの話は初読時、全くのハッピーエンドに読めるのだ。二人の再出発という意味で。
2010-10-12 09:06:15何処が悲劇なのか。キリスト信者の善良なる村人が死んだことは全く悲劇ではない。元来語り手も読み手もアンチクライストであり、彼女らにとっては喜びこそすれ悲しくはない。或いは虫けらが死んだに等しい程にどうでもよいことなのではないか。
2010-10-12 09:09:10文化的宗教的な敬意が払われていないということは、そこに生きる土着の人々にも敬意が払われていないということと同義である。つまり、この物語の主役である二人以外は、ほんとうに、モブキャラであり、よく描かれた書き割り以外の意味を持たない。フォーカスはつねに怪物たちに当たっている。
2010-10-12 09:13:21だから悲劇はお伽話の中に求めるべきではない。お伽話の外側にこそ悲劇があるのではないか。つまり、ハッピーエンドのお伽話と対比するような作中の現実にこそ悲劇があるのだ。
2010-10-12 09:16:09つまり語り手○○から姉妹へ贈られたお伽話であるということの意味は、オマエラちゃんと仲良くせえよ、というメッセージであるのではないか(←カプ厨的曲解の極みである
2010-10-12 09:20:12だから卿のデウスエクスマキナ的な悪意とその破綻にも、アンチクライスト的な(ある意味幼稚な)喝采が含まれていると読むべきである。少女は何やってもかわいい(ロリコン的誤読
2010-10-12 09:28:14