- L_O_Nihilum
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どうやらショーペンハワーさんにとって音楽とはガチで世界を超えた物であって、その気になりさえすれば音のない音楽でも音楽と呼べるものは存在するそうです でも、それじゃあどうして彼音楽論じるときに音現象で出来た演奏される音楽しかアナロジーとはいえ、紹介してないのかw
2013-11-06 17:50:03ショーペンハウアーの基礎思想「世界は意志によってできた盲目なもの」
ぱらぱらと整理してみるションベンハウアー…じゃなくてショッペンはわー…どうでもいいや、とりあえずショーさんにとっての世界の在り方と藝術についてざっとこさ
2013-11-06 17:51:01もう主著のタイトルにもありますが意志と表象としての世界っす。世界=意思が現れてできた物、って考え方。世界そのものが意思を持ってるみたいな日本のヤオヨロズ的発想ではなく、世界が出来上がるための根源のエネルギーが、そもそも意思だって事
2013-11-06 17:52:13シューティングで言うと斑鳩の産土神横輝塊(うぶすながみおうきのかい)…てか石のような物体のような世界感に近いっす。いや、もしかしたらかもしれませんが「石のような物体」って「意思のような物体」として引っ掛けていて、アレも結構ショーペンの影響下かもしれません
2013-11-06 17:54:25で、じゃどうやって世界がそうやってできてるのかってーと、 ①意思が、それぞれの生み出そうとする個々の形(個物)を客観化…つまり形象化することによって、イデア(昨今研究ではイデーと書かれることも)を生み出す。(続くよ)
2013-11-06 17:56:34②この、イデー=物自体が、その世界の中で生きてる様々な生き物とか(下手したら他のモノもそうかもしれませんが、当時の観念かショーさんはそうは思ってないようです)の持つ意思によって反映…てかその目とか感覚や知性に留まることで、「あらわれ」る(すなわち現象する)。
2013-11-06 17:57:48③かくして、「世界」が出来上がると言う事。 意思と表象としての世界というタイトルは、こういう世界観を意味している。つまり、意思そのものが形となってできた大きな宇宙全体というか、世界そのものに対して、それの中での分有物である個物の意思が映し出す表象としての世界。
2013-11-06 17:58:49そう考えると、世界は端的にその「意思の世界」「(意思による)表象の世界」と二つに分けることが出来るわけです 二つの世界【東方】 (4:20) #nm8639519 http://t.co/VMNXhje1GN
2013-11-06 17:59:44んで、ショーさんがヤバい所はそっからでして。つまり世界ってのは意思によってしか現れないし形成されないわけです。そして、その意思が、例えば人間なら、モノを見て、それがなんだとかどういう役にたつもんかとか、そういう思考とか、感覚とかを惹き起こしてるとしてるわけです。
2013-11-06 18:00:52ひいては知性、一般的にカントだかライプニッツだかの啓蒙主義者や理性主義者軍団が使ってそーな意味での「理性」さえも、意思に先立たれてると考えているわけですね。
2013-11-06 18:01:38そうなると、カントが言うような、理性によって情報をカテゴリーに整理して、経験と演繹を摺合せする…そっから客観ってものが見つかるんじゃヒャッハー!って発想とか、ヘーゲルみたいな絶対理性信じれば弁証法で真実にたどり着くヒャッハー!!て理性系の思想は全部却下されちゃうわけっす。
2013-11-06 18:02:48極端な話、「理性」なんて偽物だし、あっても意思の産物だし、 ましてや「客観性」をや。だから、科学や数学も彼にとっては事実上クソのクソの野糞レベル。そんなもの使ったって世界の真実の0.5個も見えてきませんよという状況。
2013-11-06 18:03:43それは例えばリンゴを見ている時なんですな。リンゴを見た時に人間は必ずどこかで、それの関連情報…例えば美味しいかどうかとか、大きさがどうとか考えてるわけですが、こういう「関心」に囚われてる地点で、人間はもうリンゴが「何であるか」を調べる能力を失ってるわけです。
2013-11-06 18:05:15それを「計算」する場合も、「理性的に客観視」してる場合も、同じ。「客観視」とか言ってますが、ショーさんによれば、世界を客観化しているのは飽く迄意思のイデーへの作用であって、人間や動物たちの理性のモノサシなどではないのです。
2013-11-06 18:06:26一般的な意味で使われる悟性や理性と言ったものは、その意味で、ショーペンにとっては全部”主観”であるわけです。実はしっかりものを見ているようで、何にも見えてないまま真っ暗闇のなかで見えても触っても無い物を、「これこれだ」と言ってるようなもの。
2013-11-06 18:07:44だから、ショーペンハウアーは、『世界は盲目的な意思で出来ている』という、ちょいと含みのある言い方をしてるのです つまりまず人間が観てる世界、てか凡人が観てる世界というのは全くの虚妄の集合に過ぎない。それ自体が意思の産物の範囲でしかないから。
2013-11-06 18:08:46そして多分そのことは、現象させてる世界「そのもの」の側もそうだ、と言う二重の意味になってるでしょうな。世界は自分がかくある世界だ、なんて喋りもしないわけですし。その意味でも、つまり意思と表象両方の意味で、 『世界は意思であり盲目』 なわけです。
2013-11-06 18:09:53意志という盲目のなかで、芸術家とは
ではそこで、人間はどうあがいても絶望…てか、どうやっても意思という輪っかにくくりつけられた、イクシオンたん状態です(ギリシア神話ネタ。ググってね)。では、人間は真実を、世界を正しい目で見ることはできないのでしょうか。
2013-11-06 18:11:16そこで、ショーさんは人間のなかでも、そっから抜け出てるヤツがいる、と言います。 それが、「天才」なのです。常識的な認識や生活が出来ず、いわばKYな事さえあるんですが、とにかく一芸に秀でてて、何の論理的根拠も無しに世界その藻を見てしまう才能を持った奴こそが、真実を見てるのです。
2013-11-06 18:12:17この『天才』が、ショーペに言わせれば『藝術家』なわけです。何故彼らがそんなことが出来るのか。それは以下の理由に依ります。 『意思の客観化されたもの、つまりイデア(物自体)を見てるから』
2013-11-06 18:13:14イデー(イデア)は、さっきも言ったように世界の意思が、個物をして客観化した姿です。それは世界にあるいろいろなものです。リンゴでもよし森でも林でも空でもよし川でもよし、人間や猫や犬でも石でも岩でもいいのです とにかく世界にあるいろーんな現象のその現象根源たるものです
2013-11-06 18:14:52画家や音楽家や詩人とかそういう人たちは、そういう自然のあらゆる対象の、真実の姿を、あらゆる論理なしに(だって論理使って見てたら意思の内部だから!)、まるで大海原からお目当ての大魚一匹をひょいと掬い上げるように、素晴らしい鋭眼で引っ張り出すことが出来ると言うのです。
2013-11-06 18:16:39で、それを、そういう才能を持ってない(≒普通の人)意思で見てる人たちにも、解るように伝える能力を持っているとしているのです。 そして、その藝術の分類は、その描き出して伝えようとするイデアのレベルの段階で分類できる、なんてことまで言ってます
2013-11-06 18:17:43