"修行"の原義をめぐるやりとり

「修行」という語の原義についてのjiei_yushiさん stogyo7さんのtweetを備忘録がわりにまとめました。
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慈永祐士 @jiei_yushi

「修行」の原語が気になって調べてみたが、car, pad, kārin,bhāvanāなどと一定しないが、苦しみを連想させる言葉はないようだ。「道」「歩み」「行為」「育み」などという意味から、英訳の’practice’は語感に近いかもしれない。これは「練習」でなく「実践」である。

2013-11-07 09:16:11
慈永祐士 @jiei_yushi

仏教をプラグマティズムだというつもりは毛頭ないが、ただ'practical'なものという側面は、やはりもっと強く意識されていいと思う。あまり現実的な損得に近視眼的になってもよくないけれども。

2013-11-07 09:21:01
慈永祐士 @jiei_yushi

現実的な損得をどうこういうのではなく、しかし現実的な「手応え」はやはり大事だと思う。たとえば慈悲だの救いだのといっても、それが何なのか、どういうものかという実感から遠ければ、やはりそれは「修行」からも遠いのではないかと、振り返る必要があろう。

2013-11-07 09:26:38
stogyo @stogyo7

岩波仏教辞典によればbhāvanāが「修行」に対応するサンスクリット語の一番に挙げられているが,bhāvanāというのは語源的には「在らしめる」という意味で,BhKrによれば,直知(pratyakṣīkaraṇa)するため,即ち真実を知るために繰返し行うものと位置づけられている.

2013-11-07 09:37:00
stogyo @stogyo7

仏教が面白いと思うのは,真実を直知するために,その前段階として真実を眼前に在らしめる努力をするということ.「在らしめる」という点が特に興味深い.そこにある真実を知るというよりも,真実のあり方が修行者の主体的努力と密接に結びついているという印象がある.

2013-11-07 09:39:40
慈永祐士 @jiei_yushi

@stogyo7 勉強になります。bhāvanāというと脊髄反射的に「meditation」という訳が当てられますが、この狭義的な用いられ方に慣らされすぎることへの警鐘が最近聞かれるようになりました。いまのTweetでそれを再認識したように思います。

2013-11-07 09:41:46
stogyo @stogyo7

@jiei_yushi 訳語としての meditation は決して間違いではないのでしょうけど,そのように訳すと bhāvanā という語句本来もっているニュアンスが失われがちですよね.

2013-11-07 09:43:40
慈永祐士 @jiei_yushi

仰るとおりだと思います。スリランカでは外国人向けの「商売的」な瞑想道場が乱立してきた背景もあるためか、瞑想だけがbhāvanāだと思わせるのはmisleadingだという批判が昨今よく聞かれるようになりました。RT:@stogyo7 訳語としての meditation は決して

2013-11-07 09:48:28
慈永祐士 @jiei_yushi

『正法眼蔵』でお馴染みの「弁道」はbhāvanā になるでしょうね。

2013-11-07 09:56:39