「野良猫の視点」についての説明
- noranekoview
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演劇の大きな機能のひとつとして、町の風景や、自分の生きている時間、そこでのさまざまな出来事について、日常の範疇とは違う見方を提示するということがあるのだけど、そこで「野良猫の視点」を提供できる演劇空間、ができたらいいなと思っている。
2013-11-21 00:29:55野良猫は地図を持たないので、客観的にその道筋を把握することができない。あくまで地図は主観的なものとして自分の中に組み上げていく。そして、その地図は「縄張り」と呼ばれるようなもので、その中ではそいつは安心しているだろう。
2013-11-21 00:30:06「縄張り」は家と同じような意味で、でも、家ほど固定的な概念ではない。それで言えばどこでも家になるし、簡単なことで喪失されてしまうかもしれないけれど、他の場所に新たに作ることも同じく容易である。
2013-11-21 00:30:13話の中に出た例だと、いつも使う駅の特定の改札に妙に愛着をもって、そこを通ろうとしたときに邪魔されるとなぜか無性に腹がたつ、だとか、いつも通う道は雨が降ったときの水たまりの位置も把握できるし、なんとなく通る道筋も決まってくる、というような。
2013-11-21 00:30:43引っ越してきたばかりだと、その「縄張り」を開拓していく作業を日々おこなっていくことになるし、その広げ方も人それぞれだろう。
2013-11-21 00:30:53縄張りを外れたときの感覚、というのもある。散歩していて、わざと外れてみることもしばしばある。そのとき、見るものはやはり、縄張りを歩いているときとは変わってくる。
2013-11-21 00:31:08ちなみに僕の縄張りポイントは阿佐ヶ谷駅の北口を出て右手に歩いて行ったところの横断歩道の脇のガードレールの外側にある、ちょっとした一人分くらいのスペースで、信号待ちしているときはここに入りたくなる。ガードレールに腰掛けられるので楽なのだ。
2013-11-21 00:31:22先日、野良猫について人と話していて、その人が言うには、それぞれの野良猫の縄張りは、それぞれ各自のレイヤーで広がっていて、重なる部分もあるのだけど、そもそもレイヤーが違うからその重なりは問題にはならないのではないか、ということで、
2013-11-21 00:31:54同じ庭であっても、塀の下の割れ目をくぐってくるブチと、木の上を伝うクロとでは、領域認識は変わってくるだろう、だからその場合は喧嘩は起こらないのではないか、と言うから、なるほどそうかもしれない、と思って、
2013-11-21 00:32:08確かに我々人間はなまじ地図などというものを持っているから、その世界を土地の広がりとして、二次元的なものとして捉えがちだけれど、そもそもこの世界には高低もあるし、どういう道をくぐり抜けてきたかでその場所の認識も変わるのだから、
2013-11-21 00:32:30たしかに子供の時分は、道の凹凸、段差とかを今よりも意識していたかもしれない。というより、そういう場所を好んでいたのかもしれない。
2013-11-21 00:32:55側溝だとか縁石だとか、ちょっと段差になったところなど、高いところや低いところに行きたがったのは、その地形も含めて自分の歩いている道のありようだからということだろう。
2013-11-21 00:32:59また野良猫について考える。 大切なことは、野良猫的な視点、主観的にしか見ない、縄張りの中の視点を、いかにして我々人間が、人間のまま獲得するかなのだ。それでないとほんとうに野良猫の、野良猫的なものを抽出したとは言えないだろう。
2013-11-21 00:33:34そう、本当の野良猫が見そうなものを探っていても、それだけでは真に野良猫を捉えたことにはならない。あくまで演劇の範疇とするためには、野良猫の野良猫らしさ、「野良猫的」という部分を、人間である我々が、文化的な人間生活を営んだまま、取り込むことが必要なのだ。
2013-11-21 00:33:45これらはこれらで、いかにも野良猫らしいし、それらを見つめる目線というのは、自然に野良猫の雰囲気をまとう。それでもいい。野良猫らしい。しかし、野良猫らしさというものはそれにとどまらないはずだ。
2013-11-21 00:34:11俳優と話をしていて、いくつかの「野良猫的なもの」を纏うためのアイディアが浮かんできた。たとえば、「見下ろす」ということ。人間として生活していると、必要にかられて「見下ろす」ということは、あまりない。
2013-11-21 00:34:22それはなんとなく景色を眺めたいときだとか、ふと外が気になったときだとか、具体的な社会的な活動とは少々違った状況において、つまり、野良猫的なありようにおいてなのだ。見下ろすとき、人間でも、まるで屋根のうえの野良猫のような視線を、自然に獲得する。
2013-11-21 00:34:31「野良猫のように見る」ということは、自分の生、生きているということ、に対してはすごくフォーカスをおいているけれども、それは自分の「果たさなければならないもの」だとか、「積み上げていかなくてはならないもの」だとかに対してはさほど注意を払わない、ということだ。
2013-11-21 00:34:56野良猫においては、そんなもの、くだらないものだから。自分の住んでいる世界に対しては至極愚直にみつめていくけれども、時間的な過去や未来の自分を想定したり、そこに対して責任を負ったりはしない。
2013-11-21 00:35:13僕は演劇的な場所においては、常に野良猫的でいたいのだ。それこそが演劇的な効果であり、演劇に期待するところのものである、と思っている。
2013-11-21 00:35:19今、俳優と、その「野良猫の視点」で見たものたちを集めている。野良猫の見る「風景」ではない。結局風景を見せるのはその人の内面であって、それではあまりに個人的で、感傷的すぎるからだ。
2013-11-21 00:35:39