関羽が青泥で楽進と対峙していた件は、やはり呉と連携していたのか?或いは曹操が濡須に向かったことで、手薄になったという判断でのことか。濡須の戦いは、曹操が企図したのであるから、いずれにせよ、呉との連携と言っても、攻められている呉を救う程度の意義しかないだろう
2013-11-15 09:59:32建安十七年頃の関羽の北進が、曹操に攻められた呉の救援だとすると、孫権による劉備への救援要請の前後のどちらなのかが気になるところだ。後なら問題ない。前だと面白い。前ならば、孫権は関羽だけでなく、追加の救援要請をしたということ。しかし、劉備は逆に荊州の兵を呼び寄せた。これは孫権怒るわ
2013-11-15 10:04:20曹操が濡須攻撃のために軍を動かし始めたのが、建安十七年の十月。孫権がその動きを知ったのも、その後だろう。救援要請が劉備の元に届くには、更に時間が掛かる。関羽の襄陽攻撃は、救援要請後の動きとしては早すぎる。救援要請とは無関係に動いていた可能性が高い
2013-11-17 17:37:22関羽が青泥で楽進と対峙したのが、呉の意向と無関係として、一体何を目的としていたのか?恐らく、結局は曹操の動きに起因しているのだと思う。
2013-11-17 17:40:12曹操が軍を揚州方面に向けたことで、荊州が手薄になったと判断したことが、関羽北上の理由だろう。その後の曹仁攻撃にしてもそうだが、関羽は曹操が容易に戻ってこれないと見ると軍を出すということか。
2013-11-17 17:49:27関羽の北上が曹操の不在を突いたものならば、曹操が帰還した上で、戦局に有利なものが無い限りは兵を引くだろう。従って、関羽は春の内には南へ帰還したと考えられる。
2013-11-17 17:51:39関羽の北上は、関羽のみで行われたわけではなく、当然、諸葛亮が後方で支援していたはずだ。そうなれば、諸葛亮の益州入りは、関羽帰還後に行われたことになる。諸葛亮らが益州に入ったのは、建安十八年の夏頃ではないだろうか?
2013-11-17 17:56:04@Jominian 中平6年(閏12月) 初平3(8) 興平2(5) 建安3(2)5(10)8(6)11(3)13(12)16(8)19(4)22(1)24(10) 黄初3(6)…こんな感じ
2013-11-26 21:42:38青泥の戦いは、曹操の目を漢中から逸らし、益州の劉備を支援する目的があったのかと一瞬考えたが、そういう効果は乏しいように思えるんだよな
2013-11-26 21:12:53@Jominian 孫権「曹操が攻めてきたんだけど」 劉備「今動けない」 孫権「助けて」 劉備「しゃーない、関羽にやらせる」 こうでしょ?
2013-11-26 21:23:54@awawaasao2013 それにしては時期が合わないんですわ。曹操が動き出したのは十月で、関羽もその年の内に動き出してるので。しかも、劉備が救援要請をもらった頃には、関羽は青泥で対峙中だったっぽいし
2013-11-26 21:27:27@Jominian ほんでも、曹操は揚州に来てる訳だし、関羽の北上が劉備の蜀攻撃を助ける動きとは思えない。あるとすれば、劉備の本心を隠すのと孫権を援護するダブルの理由があるのかも。以前、蘇非が蘇飛かも知れないって話も気になったし。
2013-11-26 21:47:19蘇非を蘇飛とし、楽進伝の記述を青泥の戦いとするなら、青泥の戦いは関羽と孫権の共闘になるが、建安十七年頃に荊州で共闘する理由が見当たらない
2013-11-26 21:48:52@Jominian それはわかってるけど、その可能性もあるのかな?と言う迷いもあるのかなと思った訳なの。(´・_・`)
2013-11-26 21:54:45