小牧長久手の戦いの前後。

開戦から和議による収束までの流れなど。
歴史 なりきり武将
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榊原小平太康政 @sakaki_koheita
先日小牧長久手のことを話すと約束したので、今日はぼちぼちやってみようと思う。例によって適当だが。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
たぐはー……まぁこれで #檄文 今日檄文関係ないけどな。たぶん。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
さて。小牧長久手の戦いに入る前に、その原因から。今丁度清須会議やっとるで見た者はわかると思うが、あの清須会議から賎ヶ岳の戦いを経て、殿下は織田家中のらいばるであった柴田殿と織田信孝殿を排除した。織田信雄殿は当主三法師殿の後見となった。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
しかしこの時点で既に殿下は織田家臣からは逸脱していたといっていいだろう。天正11年には大阪城の築城開始。これは天下普請として行われたが、知ってのとおり織田家のための城ではない。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
天正11年のはじめ。織田信雄殿と我が殿は星崎で会見している。内容は伝わっておらんが、いわゆる清須同盟の継続の確認のようなものだろう。まぁ、他にも色々とあるが。それからすぐ信雄殿は安土城に入られた。4月に賎ヶ岳、そして6月には三法師殿と信雄殿は安土から清須に。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
9月には大坂城の普請が本格化し、誰の目にも天下人がかわった事を示した。もちろん、納得していない者もいる。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
天正12年3月。信雄殿は老臣三名を内通の罪で斬った。この三名はこの時殿下に証人、つまり人質を差し出していた。家中で殿下に対抗できる勢力はすでになく、その殿下と争うのは織田家の中に限定すればあまり現実的でなかったはずだ。しかし信雄殿は徳川家を頼った。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
3月9日、戦いは伊勢亀山城ではじまった。この前か後かは知らんが、信雄殿は池田殿からとっていた証人を帰したらしい。結果、池田殿は犬山城を電撃攻略。同日、殿は清須城着いたが、池田殿と森殿はこちらにつくと信雄殿は思っておられたようだ。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
犬山城が池田殿に奪われたことにより、徳川軍は北伊勢に援軍を送ることができなくなった。また森殿が兼山から羽黒に進出してきて酒井左衛門尉殿以下がこれを撃退。一般に言われる小牧長久手の戦いがはじまる。徳川軍はわしの言上で小牧山城に入り、数日かけて城全体を守る土塁と堀をつくる。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
3月18日に我々が小牧山城に入った頃、殿はまだ清須におられた。21日に殿下が大坂城を出たという報があり、28日に楽田に着陣。それにあわせて殿と信雄殿も小牧山に入城された。この時点で小牧山城の改修は終わっている。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
で、ちょっと小牧山城の改修をばっちりしすぎたせいで、お互いににらみ合いになっとった。勝敗は相手の陣を見るとわかるというが、あちらは大軍をもってしても容易には落とせないと見たんだろう。もちろんその判断は正しい。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
というところで日付がかわったので、続きはまた明日にでも。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
前半は三行で終わらせるつもりが無理だった。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
昨日の続きをぼちぼちとやっていくでなー、というところで猫に邪魔されとる。
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
昨日小牧長久手開戦までの流れを簡単にやったが、続きは http://t.co/H2VW2VdQo1 このへんで。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
4月6日、いわゆる三河中入り部隊が出撃。その動向はすぐに知れたが、これは特に隠密行動でもなかった。そも二万五千と言われる軍を完全に隠しておくことはできん。ただ動きは遅かったな。そして長久手での激戦となる。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
甲州勢は元々わしと兵部の下に半分づつ付けられる予定だったんだが……あの時の話はあまり思い出したくない。全部兵部のところに、と言われたのは酒井左衛門尉殿らしいがな。 #skbot
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
4月9日のこの戦いは徳川軍の迅速な動きが肝だった。戦いが起こったことを知った殿下が本隊を動かしたが追いつけず。小牧山に殿が戻られたと知って兵を返された。この戦いは徳川軍の勝利に終わったが、問題はその後だ。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
殿下は小牧山城はいったん放置。もちろん兵は置いていたがにらみ合いのまま。尾張周辺の城を攻略していった。楽田に数万の兵を残したままの戦いで、このあたりは流石に兵の数が違うな。おかげでこちらは援軍に出ることもかなわず。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
5月3日、殿下は楽田から本陣を一宮の聖徳寺に移した。信雄殿はこれを受けて長島城へ移られた。7日に加賀井城、9日に奥城が陥落。次は羽島の竹ヶ鼻城だが、ここは殿下お得意の水攻めで、一ヶ月にわたる籠城戦となった。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
このあたり、わざと時間をかけて徳川本隊を小牧山の外へ出そうという意図がある。実際、一度は平八郎などが援軍に向かったが失敗した。小牧山の前には大軍がいるのだから、みえみえの罠ではあった。根気を試されている感じだな。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
6月10日、竹ヶ鼻城が開城。そして殿下は一度大坂に戻った。これは上杉が動いたことによるものと聞いている。殿も小牧山を出て清須に移動。小牧山は酒井左衛門尉殿が残り引き続き対峙する。16日、滝川一益殿が蟹江城を占拠。それを知った殿は兵部だけを連れ湯着のまま駆けて蟹江に急行。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
蟹江城は信雄殿の長島城と殿のいる清須城の中間で、ここをとられると文字通り分断される形になる。ちなみに北伊勢については3月の時点でいくつかの城がすでに攻略されている。18日には我等の蟹江城攻めが開始された。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
殿下は滝川殿の蟹江城奪取を受けて、伊勢長島の総攻撃の準備をしておったと聞く。敵は物量は豊富だが機敏さに欠ける、そこに我等の勝機はあった。 #檄文
榊原小平太康政 @sakaki_koheita
そういえば蟹江の戦いには九鬼水軍も参加されとったな。少し蟹江の話をしようか。この蟹江は尾張有数の港町のひとつで、かつては滝川一益殿が治めておった。この時の蟹江城主は佐久間正勝殿。しかし佐久間殿は砦普請で出張中、留守を預かる前田長定殿が滝川殿の調略に応じた。 #檄文
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