- L_O_Nihilum
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「ラッセンとは何だったのか~消費とアートを超えた先」を読了しました。 ある程度感想はまとまったんでちょいと。
2013-12-02 18:28:56人は、衣服を着て、世の中で生きる。文明が高度に発達した国ほど、この傾向は顕著であって、日本もまた例外でない。そういう文明は、いわゆる「アート」という文化の検閲機関がある。これもまた日本の例外ではない。
2013-12-02 18:29:46でもただ着るだけでは人間として「本質的」ではない。文明的な生活を送るためには、ただ着るだけでなく、着る物を選ばなければならない。 ここではそのような時に着る着物を「背広」してみよう―――なんなら十二単でもユニフォームでもよい――本書の問題意識は、まさにこの背広のような問題なのだ。
2013-12-02 18:31:59文明的な生活のなかでトナリの大人と対等に暮らしていくのであれば、そのような背広を着て生活をしなければならないのは常識とされている。儀礼的に枠づけられた集団の「正しい装い」であるから、この背広のような衣服は、「正装」と言われる。
2013-12-02 18:33:12じゃあ、背広を着るのは、なんのためであろうか。端的に言えば、「恥」を隠すためである。通俗的な恰好をしていては、それではこの世界においては裸で歩いているのとほとんど変わらないのである。だから、その恥をかくし、背広、じゃないケの部分を隠蔽・忘却させ、ハレの共同体を作る根拠になる。
2013-12-02 18:34:59曰くラッセンとは、まさに日本の「アート」というハレ舞台にとって、「恥」とされるところのものとして扱われ、覆い隠されてきたのだそうだ。 ラッセンが日本アートの文脈に位置付けられてはならない、ラッセンを以て正装とする者は部外者と看做す、という風潮。これがあった。
2013-12-02 18:37:01ではそれはナゼか?確かにラッセンのアートはその分かりやすさ、強度の手軽さを持った特徴や、それによって複製に大いに開かれ、商業ベースで大いに成功したという点で、禁欲的表象で観られうるから、というのはあるかもしれない。だが、そんなのはタテマエ側の言い訳に過ぎない。
2013-12-02 18:38:17売れたから妬ましい…というのも、なくはないだろう。だがそんなことよりも―――いやそれよりも、わざわざ商業作品であるなんてところを振りかざしてまで区別しているところにある不自然さに目を向けるべきだ。同じことをやってても村上隆は文脈上に位置付けられえたのだから。
2013-12-02 18:39:20そう、商業云々、消費云々以前の段階で、どこか勝手にラッセンの表現、いやラッセンと言う記号自体を、《消費》等々の非文脈的要素でくくり、排除したいという欲望があって、それを正当化するために消費者のモノ、という物言いがされてきただけだと言う事を、自覚しなければならないのだ。
2013-12-02 18:40:36否、自覚するだけでは、まったく何も進まない。背広を着てた自分たちの、恥のエートスを晒しただけでは、これではただ「恥さらし」になったに過ぎない。裸じゃなかったんだから、裸になって踊り晒そう―――これが「ラッセン展」の狙いだったと思うけど―――その計画はまだ危険性に迫ってはいない。
2013-12-02 18:41:55裸で踊れば万事解決というわけではない。アウトサイダー、文脈外部とされて放り出しにされてきたものを、放り出しとして定義しようという欲望がまだ残っていると言えるからだ。こういう恥が我々にありますよ、と言いつつ御霊信仰的に封じ込めるためにも、こうした恥さらしは有用なためだ。
2013-12-02 18:43:04最終的に、裸で踊っただけでは、後で五日背広を着た後元通り。そうした根本的な看過されうる問題として読むのなら、巻末にある「領土拡大」問題や、「文脈に組み込むくだらなさ」は、同一の骨子から出発した異なる問題だったと言わなければならない。
2013-12-02 18:44:41そのエートスをえぐり出すのも大きな課題だろう―――なにもこの憂き目を見ているのはラッセンやヒロ・ヤマガタらだけではない…というより、そういったアート界隈ならまだマシ、と言いたいくらい扱いが酷い文化はいくらでもまだ残っているのだ。
2013-12-02 18:45:51アニメ、ゲーム、漫画。曰くサブカル、オタクと名指されてきた界隈への視座がまさにそれだ。こちらの場合は「恥」と断定されただけではなく、この「恥」が常識となるくらいの流行と消費を見せたここぞとばかりに、「背広捏造」の材料として、その文脈の側の「奴隷」にされてきた側面があるのだ。
2013-12-02 18:46:59批評に少しでも目をやっている人なら身近な問題であるはずだ。一部のエリートの、勝手で上っ面な目線による消費者分類分析、その道具としてばかり、オタク論は使われてきた。都合の良い社会論、そしてそのためのリアリズムとして扱われ続けてきたのだ。
2013-12-02 18:48:00当然そこからは、その作品を楽しむ当の視座は生まれない。いやむしろ、売れるか売れないか、売る意味がビジネスにあるか等の視座でにらまれ、それ自体やはり「恥」として排除されただろう。いや、恥とさえ言わずに、「黙殺」するだろう。それが恥だと言うコンプレックスが背景にあることさえも隠すのだ
2013-12-02 18:49:03オタクはすでに死んでいる―――というような、オタクの死をオタクの中心的な、内輪の理論を排斥する目的は大いにそこにあった。オタクから背広を奪い、オタクも着ない世人言論の、ゲテモノの背広を捏造するために、その創作や享受が都合よく論理に組み込まれ続けてきたのだ。
2013-12-02 18:50:18背後にあるものはラッセンへの排斥感と根底通じ合っていると思う。なにせ、いずれも「消費」タームで語られる典型なんだから、同じ言い訳で以て排斥したいところのものが彼ら論説や藝術のなかに同居していると言っていい。
2013-12-02 18:51:44即ちその場にねむる問いからでは、これらを扱おうとする評論は書けっこないのだ。批評は批評を経由せざるを得ない―――二項対立は経由するもの、とはクレール・パルネの言だが、そうだとしたらこれはジレンマ以上に重大な倫理問題に発展していると言わざるを得ないだろう―――
2013-12-02 18:53:08即ち、もはやそのような交叉自体をしてはならない境界にまで来てしまったのではないか。いや、その境界をとうにわたっていたにもかかわらず、それに気付かないまま文脈だけが、ピラミッドだけが、うずたかく積みあがってしまったのだと。
2013-12-02 18:53:52そしてそれを問う時、まったく違う場所から、即ち現行の欲望される批評の方向性を、ほとんど決別するように語るスタイルが、求められざるを得ないのではないか、という哲学的問題を呈示しているのではないかなあ、と思うわけなのである、僕は。
2013-12-02 18:55:36これはラッセンだけの問題ではない―――!! ラッセンを排斥しようとするそのような勝手な奥底の趣味の連合、意識の流行。それが打ちたててきた、恥を忘れたふりをする基軸。
2013-12-02 18:57:08そしてその基軸から論的に生み出される、様々な欲望とともに形成される、肩幅のせまい、見識の狭い文脈化された趣味。
2013-12-02 18:58:27