イザヤ・ベンダサンbotまとめ/司馬遼太郎「三島事件に際して全日本教徒に与うるの書」/~「論理(ロゴス=言葉=思想)」を”人間(天秤の支点)で中断する”のが日本教徒の正常な行き方~
- yamamoto7hei
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⑨これは「三島批判」というより、むしろ 「三島事件に際して、全日本教徒に与うるの書」 とでも言うべきものです。 事件が起ったのが11月25日、この一文が掲載されたのが26日の朝刊ですから、おそらく非常に短時間に一気呵成に書き上げられたものでしょう。
2013-12-12 06:39:47⑩従って短い前文が終ると、いきなり「日本教」の核心ともいうべき言葉が来ます。 『檄文』を抜粋したように、この一文をも説明を加えつつ抜粋してみましょう。
2013-12-12 07:40:00⑪【(1)思想というものは、本来、大虚構であることをわれわれは知るべきである。 思想は思想自体として存在し、思想自体として高度の論理的結品化を遂げるところに思想の栄光があり、現実とはなんのかかわりもなく、現実とはかかわりがないところに繰りかえしていう思想の栄光がある。】
2013-12-12 08:39:59⑫【ところが、思想は現実と結合すべきだというふしぎな考え方がつねにあり、特に政治思想においてそれが濃厚であり(と氏は書いていますが、私はむしろ、日本では、「政治においてそれが露呈する」と考えます)、たとえば吉田松陰がそれであった。】と。
2013-12-12 09:39:55①ここで、プラトンを思い起すのは恐らく私だけではありますまい。 彼の記すソクラテスは、司馬氏とは全く逆で、ロゴス(言葉=論理=思想)は現実と結合しなければ無意味だと次のようにはっきりと断言しているのです。<『日本教について』
2013-12-12 10:40:02②【私(ソクラテス)としては、今に始まったことでなく常に、私に関する限り、私には最良と思われる思考の結果であるロゴス(言葉=思想)以外には、絶対に従わないという人間である。 今まで口にしてきたロゴスを、私の運命がこうなってしまったからといって、今、捨て去ることはできない。】
2013-12-12 11:39:56③【いや、それ(ロゴス)はほぼ同じだと私には思えるし、以前同様それをうやまい、尊んでいる。 今、われわれが、語るべきより良きものを持たないならば、知れ! 私はあなたに従わないことを。 正しいと同意したことは、実行すべきか破棄すべきか…… 実行すべきだ。(『クリトン』)】
2013-12-12 12:39:59④以上のプラトンの言葉を頭において、司馬遼太郎氏の次の言葉をお聞きください。 【(2)松陰は日本人がもった思想家のなかで最も純度の高い人物であろう。 松陰は「知行一致」という、中国人が書斎で考えた考え方(朱子学・陽明学)を、日本ふうに純粋にうけとり、】(続
2013-12-12 13:40:02⑤続>【自分の思想を現実世界のものにしようという、たとえば神のみがかろうじてできる大作業をやろうとした。 虚構を現実化する方法はただひとつしかない。 狂気を発することであり、狂気を触媒とする以外にない。】
2013-12-12 14:39:57⑥【要するに大狂気を発して、本来天にあるべきものを現実という大地にたたきつけるばかりか、大地を天に変化させようとする作業をした。 当然この狂気のあげくのはてには死があり、松陰のばあいには刑死があった。】
2013-12-12 15:39:56⑦さて刑死という言葉が出て来ますと当然ソクラテスが連想されます。 すると「私に関する限り、私には最良と思われる思考の結果であるロゴス(言葉=思想)以外には絶対に従わない」と明言した彼も「狂気を触媒」とし「要するに大狂気を発して」「この狂気の挙句のはてに」死があったのでしょうか。
2013-12-12 16:40:08⑧もちろん否です。 ソクラテスは少しも狂気せず、きわめて冷静かつ論理的に自問自答しているだけですから。 彼(ソクラテス)の場合は「思想が現実と結合すべきだ」と考えない人間がいたら、その人間こそ「狂気を触媒として」思想という名の妄想を抱いているにすぎないことになるでしょう。
2013-12-12 17:39:56⑨すなわち彼は、法を破って脱獄すれば、その行為自体が、誤っているはずの裁判官の判決を、正しいと裏書きすることになる。 なぜなら、法を破壊するものは、青年や無知な者を堕落させると思われるのが当然だからだ――
2013-12-12 18:40:03⑩一体、国外に逃亡して、そこの人びとに何と話しかけ、どういう思想を語るつもりか、 彼らに近づいて、例えば、徳、正義、秩序、法が人間にとって最高の価値を有するものだなどと話すつもりなのか、 そういう行為こそ、最大の恥知らずではないのかと。
2013-12-12 19:40:00⑪――もしそういう行為ができるものがいるとしたら、その人間こそ、ソクラテスにとっては「狂人」ではないでしょうか。 彼ソクラテスの場合は「思想」のみが「現実」ですから、現実の「彼」は言うまでもなく「彼の言葉」です。
2013-12-12 20:40:00⑫これは西欧人にとっては自明のことであり、従ってソクラテスが、生きるも死ぬも、自分のロゴス(言葉=論理=思想)で自分と自分の世界を律しているのもまた当然で、ここに狂気が入る余地があるはずはありません。
2013-12-12 21:39:58⑬言うまでもないことですが、「言葉」が「人」である世界、「言葉」が「人間」を律しうる世界には、論理的狂人が存在するはずがありません。 では一体なぜ、日本教徒には論理的狂人が存在しうるのでしょう。 司馬氏の次の言葉がそれを解いてくれます。
2013-12-12 22:40:05①【(3)彼(松陰)ほど思想家としての結晶度の高い人でさえ、自殺によって自分の思想を完結しようとは思っていなかった。 さらに松陰の門下から多くの血なまぐさい思想的奔走家や政治的奔走家を出したが、彼らの一、二をのぞいては思想と現実が別個のものであることを知っており、(続】
2013-12-12 23:39:57②【現実分析による現実的行動によって歴史を変革する事を成し遂げたというより変革期にきている歴史的現実を現実的に捉え得た】 この言葉を理解するには…「天秤」を頭に浮かべて頂かねばなりません。 支点である人間という概念は「言葉」では規定できないというのがこの考え方の大前提なのです
2013-12-13 00:39:48③これは日本人にとっては当然であって、 支点は、天秤皿の上のもの、すなわち「実体語の世界」からも、分銅、すなわち「空体語の世界」からも、ある一定の距離を保っていなければ支点になりません。
2013-12-13 01:39:48④人間は言葉では規定できない(勿論実体語でも空体語でも)、 従って「人間は言葉にあらず」を言葉で規定したとき、人間は人間でなくなってしまう」(=支点ではなくなってしまうから人間ではなくなる) というのが、実に、日本教の根本的な教義の一つ、即ち教義の第一条ともいうべきものです。
2013-12-13 02:39:47⑤従って松陰の門下は…「本来、大虚構である」「思想というもの」を、はっきりと「空体語の世界=分銅」として扱い、この思想と「実体語の世界=現実とが別個のものである事を知って」、人間という支点を媒介として、「現実分析による現実的行動」により両者のパランスを保つ事によって、(続
2013-12-13 03:39:46⑥続>松陰の「思想」を「現実面」に生かして、「歴史を変革した」という事になります。 これが日本教徒の正常な行き方です。 という事は論理は人間(という支点)で中断され、これが直接に現実を律する事はありえないのが正常なのであって、これを無視する者が 「論理的狂人」 です。
2013-12-13 04:39:53⑦従って人間という支点で論理を中断する者が 「非論理的正常人」 となるわけです。 従って司馬氏は結論として次のようにのべております。 【(4)いずれにせよ、新聞に報ぜられるところでは、我々大衆は自衛隊員を含めて、極めて健康である事に、我々自ら感謝したい。】
2013-12-13 05:39:45⑧【三島氏の演説をきいていた「現場自衛隊員は、三島氏に憤慨してヤジをとばし、楯の会の人を小突き回そうとしたといったように、この密室の政治論は大衆の政治感覚の前には見事に無力であった。 この事は様々の不満が我々にあるとはいえ、日本社会の健康さと堅牢さを見事に表わすものであろう。】
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