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『セカイからもっと近くに』を読む

推理小説評論家 巽昌章さんによる、東浩紀著『セカイからもっと近くに』に関する考察――特に新本格ミステリを巡る呟きをまとめました。
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巽昌章 @kumonoaruji

「セカイからもっと近くに」を読む。東は、現代においては想像力と現実、虚構と現実、文学と社会が切り離され、小説は社会を描けなくなったとする。「セカイ系」と呼ばれた作品が「社会」をすっ飛ばし「キミとボク」の小宇宙と「世界の危機」を直結させたように。彼はこれを「セカイ系の困難」と呼ぶ。

2013-12-20 20:25:18
巽昌章 @kumonoaruji

つまり、現代の文学などに一般的な現象として、現実と想像力の切断という事態を見出したうえ、それをかつての「セカイ系」になぞらえつつ、打開の途を探ろうという本である。他方、東がそこで検討するのは新井素子、法月綸太郎、押井守、小松左京であり、「セカイ系」よりずっと前から活動する人々だ。

2013-12-20 20:31:20
巽昌章 @kumonoaruji

なぜ彼らなのか。それは彼らが、SFやミステリといった、「いかにも現実社会に無関係で、記号的でキャラクター志向的でひきこもり的でセカイ系に近いように見える」ジャンル小説やアニメの作り手だからだ。

2013-12-20 20:35:27
巽昌章 @kumonoaruji

ジャンル作家はジャンルの特性に沿って、現実社会と切り離された想像的作品を作ろうとする。東が想定している典型例は、たぶん、吹雪の山荘で名探偵がボンクラ警官を尻目に活躍する謎解きミステリのようなものだろう。ところが、この4人の作品は、それぞれに、どこかでジャンルの建前を裏切る。

2013-12-20 20:42:24
巽昌章 @kumonoaruji

東は、彼らの作品のうちに、「虚構としての完成からどうしようもなくずれていってしまい、いつの間にか現実の痕跡を招き入れてしまう」「力学」、「そのずれの構造」を見出そうとするのだ。

2013-12-20 20:48:30
巽昌章 @kumonoaruji

想像力と現実の乖離という問題に対して、現実を締め出した空想的作品を志しながらどこかで「現実の痕跡」を呼び込んでしまう彼らの作品がヒントになるのではないか、そういうことである。

2013-12-20 20:50:01
巽昌章 @kumonoaruji

法月に話を絞ると、東は、新本格を「人間描写や社会描写に背を向け、ジャンル特有の「お約束」の組み合わせで小説を書」くと規定したうえ、法月はこうした新本格のスタイルに自己矛盾を感じ、小説でも評論でも執拗にこの問題を追及したという。この把握が間違いだとはいえないが、十分ともいえない。

2013-12-20 20:58:37
巽昌章 @kumonoaruji

私にいわせれば、新本格そのもの(むろん「新本格」が実体として存在するわけではないから、ある時代傾向に対する比喩的表現としてだが)が、こうした矛盾の内在を自覚していたのであって、法月は、いわばジャンルの自意識を体現していたのだ。

2013-12-20 21:03:14
巽昌章 @kumonoaruji

いいかえれば、新本格は、「現実」を締め出して自己完結した虚構に遊ぼうとしながら、たえず、その虚構の壁の向こうに「現実」の影を感じ、あるいは、壁のどこかに穴が開いていると感じて、その不安によって駆動されるジャンルであった。

2013-12-20 21:07:27
巽昌章 @kumonoaruji

ただ、その不安は直截な「現実」の取り入れに向かわず、逆に、現実の影、あるいは虚構の破れ目を、さらに空想的あるいは観念的なやり方で作品化する方向に動いた。その一例が「後期クイーン的問題」だが、こう言ってみれば、新本格の「矛盾」を作品化したのが法月だけでなかったことは明らかだろう。

2013-12-20 21:15:04
巽昌章 @kumonoaruji

たとえば、『霧越邸殺人事件』などでの合理的推理と神秘主義の重ね合わせもそうだし、平穏な日常の描写と文学作品の引用の隙間からおぞましい悪意をちらつかせる北村薫の生き方もそうだ。むしろ、現実離れした謎解き小説としての壁にどこか穴が開いていることこそ、「新本格」の「らしさ」なのである。

2013-12-20 21:19:41
巽昌章 @kumonoaruji

作家や評論家の発言にもこうした意識は反映された。自分の話で恐縮だが、東は法月が雑誌「現代思想」にクイーン論を載せたのを「ミステリ作家が思想誌に論文を投稿することそのものが異例」というが、同号に私も、合理的推理を志向する作家たちが「暗合」にとらわれる不思議を論じた小文を寄せている。

2013-12-20 21:28:25
巽昌章 @kumonoaruji

むろん、私だけではない。そういう時代だったのだというしかない。

2013-12-20 21:28:54
巽昌章 @kumonoaruji

いま書いてきたことが、東の議論に対する有効な反論だなどといいたいわけではない。ここまでは前置きに過ぎない。私が触れたいのは、この本で東が出している結論についてである。

2013-12-20 21:35:02
巽昌章 @kumonoaruji

東は、「後期クイーン的問題」に苦悩する法月の小説の中に、恋愛の問題を読み取り、それこそが「想像力と現実を繋ぐ社会とは別のもの」だとする。小松左京を論じながら、「生殖への欲望こそが、ぼくたちをセカイ系から、そして「マザコンが母に守られて生み出す思弁小説の罠から救ってくれる」という。

2013-12-20 21:38:08
巽昌章 @kumonoaruji

異性と出会い、愛し、子供を残そうとすること。それが想像力と現実をつなぐ。東自身が「こう要約するとそれはたいへん身も蓋もない話に聞こえる」というように、あっけにとられるような結論である。しかし、私はちょっと、というか、かなり考え込んだ。

2013-12-20 21:42:38
巽昌章 @kumonoaruji

先ほど述べたように、新本格のはらむ矛盾に自覚的なのは法月だけではなかったし、この本で書かれている法月作品の分析のほとんどは、私を含むジャンル内評論家にとって決して未踏の見解ではない。しかし、そこから、「恋愛の問題」が大事だ、という方向にはいかなかった。

2013-12-20 21:47:09
巽昌章 @kumonoaruji

つまり、東の議論をふまえれば、新本格時代の小説だけでなく、それをめぐる評論その他もろもろの言説自体が、「マザコンが母に守られて生み出す思弁」の罠にとらわれていたとも考えられるのである。

2013-12-20 21:49:24
巽昌章 @kumonoaruji

昨日の補足を少し。東は、推理小説に対して「恋愛や生殖を描け」と言うのではない。『セカイからもっと近くに』は「文芸評論」であり、小説を読むことを通じて、「現代日本において文学ができることは何か」を考える試みである。

2013-12-22 17:33:47
巽昌章 @kumonoaruji

文芸評論である以上、自分の立てた問いに対する答えがあるとしても、それはあくまで、読むという行為の中に、いいかえれば、いかに読むかの中にある。小説に対して、むきつけに「現実を描け」と命じることが不毛なのは当然の前提になっている。

2013-12-22 17:34:43
巽昌章 @kumonoaruji

昨日は語弊のある言い方をしたが、恋愛や生殖を描くべきだというのがこの本の「結論」ではない。ミステリやSFの中に、「現実」を締め出そうとしてもいろんな形で生じてしまう「現実」への「迂回路」を読みとる試みが、想像力と現実の乖離への対処を考えるヒントになるのではないかというのだ。

2013-12-22 17:40:05
巽昌章 @kumonoaruji

それをふまえて、さらに考えてみたいことをならべておく。そもそも、いったん現実を締め出したうえで、現実への「迂回路」が開くような仕組みは、ミステリやSFのような特定のジャンル小説(エンタメ)にだけ見られる現象なのか。また、それは、偶発的で無自覚なものなのか。

2013-12-22 17:44:26
巽昌章 @kumonoaruji

たとえば、先日新訳の出た『消しゴム』のように、推理小説的手法を通じて、現実認識の危うさや世界の不条理性を描くという手法は、かなり前から文学一般に共有されてきたのではないか。こうした特殊な手法をしばらくおいても、そもそも、文学そのものが、「現実」への迂回路ではないのか。

2013-12-22 17:47:20
巽昌章 @kumonoaruji

かつて松本清張が、「現実的手法で社会悪を描いた」として評価されたとき、吉本隆明は、現実とは何か、悪とは何か、と反問した。「現実」も「悪」も、人それぞれが選択し、構成するものであって、清張の「悪」が普遍性をもつか否かは、そのメカニズムに遡及せねばわからないということだろう。

2013-12-22 17:50:35
巽昌章 @kumonoaruji

それは結局、清張的リアリズムも、決して「現実をありのまま」に描いているわけではなく、これまたひとつの「迂回路」なのだということを示唆していないか。

2013-12-22 17:53:23
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