自己認識と自己配慮をめぐる問題について-フーコーのデカルト見解、キリスト教VSグノーシス主義etc-
- Abraxas_Aeon
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以前 @Abraxas_Aeon さんに教えてもらったフーコーの「主体と真理の問題を立てたのはラカンとハイデガーだけ」という趣旨の言葉について触れた文章が最近の『思想』の精神分析特集回にあって、正しい読みなのかは判断できませんが、興味深かったので引用します(次ポスト)。
2010-10-16 18:59:04『思想』2010年第6号p13《座談会》来るべき精神分析のために 原和之の発言より引用。 西欧の思想史の中で精神分析を考える時、次に手がかりとなるのは『主体の解釈学』というフーコーのコレージュ・ド・... http://tinymsg.appspot.com/QVe
2010-10-16 19:00:11@Gespenst177 ありがとうございます。まず原和之ですが、その方は『主体の解釈学』訳者です。内容を拝読しました。ラカンとハイデッガーについての見解は、聴衆からの質問応える形で突然出てくる話だったと思うのですが、なるほど、言われてみればそう取れるかもしれないと思いました。
2010-10-16 19:14:06@Abraxas_Aeon あ、訳者さんだったんですね。やけに熟読しているなぁと思ったら。『主体の解釈学』は自分もいずれ読んでみようと思ってますが、いかんせん高価ですね…。
2010-10-16 19:18:43@Gespenst177 確かふぁぼってくださっていたかと思いますが、プラトン→デカルト→フッサールという線の話がありましたよね?デカルトを転機とみているという記述は正しくその通りに書かれてます。それについては、もしお持ちでしたらフッサールの『危機』73節を参照してみてください。
2010-10-16 19:23:02@Abraxas_Aeon あの引用は興味深く読みました。根源性と経験的拡張ってやつですよね?根源性=哲学、経験的拡張=霊性なんですか、さっきの話で言うと。それともこれはまた違う話かな。フッサールの危機本は持ってないんでこんど本屋か何かで見てみますね。
2010-10-16 19:31:53フーコーが取り上げた〈自己への配慮〉という主題が蔑ろにされていく過程において、特にその契機とでも言える位置づけとなっているのが、キリスト教の「自己を放棄させるモデル(自己放棄主義)」とデカルト及びカントです。人間主義と関連してくるのですが、まずはデカルトについて。
2010-10-16 21:11:51自己への配慮の掟が忘れられ、古代の文化において千年近くの間それが占めていた地位が抹消されてしまった、その最も重要と思われる理由、これを私は[…]「デカルト的契機」と呼ぶことにする。(フーコー(以下同))
2010-10-16 21:12:56「デカルト的契機[=瞬間]」、[…]この契機は二つの仕方、即ち〈汝自身を知れ〉を哲学の中で改めて格上げし、反対に〈自己への配慮〉を格下げする、という二つの仕方で作用している。
2010-10-16 21:13:15第一に「デカルト的契機」は〈汝自身を知れ〉を哲学の中で改めて格上げした。実際、この点は大変単純なのだが、デカルトの『省察』から大変はっきり読み取れる論証の行程では、哲学的な手続きの起源、出発点には明証性があった。
2010-10-16 21:13:45それが現れてくる、そのままの明証性、つまり自ずから与えられ、可能ないかなる疑いもなく意識に実際に与えられる明証性である。従ってまさに、デカルトの方法は、自己認識を少なくとも認識の形式として参照しているのである。
2010-10-16 21:14:17その上、まさに(もはや明証性の検証という形ではなく、私の主体としての存在の不可疑性という形での)この自己認識が、存在への到達の根源に主体の固有の生存(エグジスタンス)が持つ明証性を置いたことで、「汝自身を知れ」は真理に到達する根本的な手段となった。
2010-10-16 21:14:42もちろんソクラテスの〈汝自身を知れ〉とデカルトの論証の間では、距離は非常に大きなものがある。しかしこのデカルトの方法を出発点に、〈汝自身を知れ〉の原理は哲学的な方法の基礎となる契機として、17世紀以降、いくつかの哲学的な実践ないしは方法の中で受け入れられることができたのだった。
2010-10-16 21:15:52デカルトの方法は、こうして比較的簡単に指摘できるいくつかの理由から〈汝自身を知れ〉を改めて格上げしたわけであるが、しかし同時にそれは、この点を私は強調したいのだが、自己への配慮の原則を格下げし、近代の哲学的思考の領野から排除するに当たっても大いに貢献していたのである。
2010-10-16 21:16:18古典古代の時代においては、〈汝自身を知れ〉と〈自己への配慮〉の問題とでは、この二つはセットになっているが、〈自己への配慮〉の問題が上位にあったというのがフーコーの指摘。
2010-10-16 21:37:03カタリ派・ボゴミール派の良書リスト。フェルナン・ニール『異端カタリ派』、原田武『異端カタリ派と転生』、渡邊昌美『異端者の群れ』『異端カタリ派の研究』、ユーリー・ストヤノフ『ヨーロッパ異端の源流』、ルネ・ネッリ『異端カタリ派の哲学』、ディミータル・アンゲロフ『異端の宗派ボゴミール』
2010-10-16 22:48:10真であるものや、偽であるものについてだけではなく、真や偽といったものがあり、ありうるようにしているものについて問う思考の形式、主体が真理に至ることができるようにするものを問う思考の形式、これを「哲学」と呼んでみることにしよう。(M・フーコー)
2010-10-17 00:40:36そうしたものを「哲学」と呼ぶならば、主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験は、これを「霊性(スピリチュアリテ)」と呼ぶことができるように思われる。(M・フーコー)
2010-10-17 00:41:27この場合「霊性」と呼ばれるのは、探求、実践及び経験の総体であって、それは具体的には浄化、修練、放棄、視線の向け変え、生存の変容など様々なものでありえる。それらは認識ではなく、主体にとって、主体の存在そのものにとって、真理への道を開くために支払うべき代価なのだ。(M・フーコー)
2010-10-17 00:42:15否定神学的方法論は、学問ではあまり有益なものとは思われていないようだが、近代宗教の実践の方法論としてはとても重要だ。YHVHや善悪がロゴスによって規定不可能である以上。
2010-10-17 00:44:07パリサイ派のパウロが異邦人の良心とユダヤ人の律法を相対化してみせた出来事は、ロゴスの限界を端的に表している。しかし「良心」や「律法の義」を否定していないところがポイントだ。
2010-10-17 00:47:44サンデルはオーディエンスには自分の意見を表明させるのに、なぜ自分が主張することは避けるのか? コミュニタリアンだから? もちろんそれもあるが、それだけじゃない。彼が異邦人の中で生活するユダヤ人であることも大きく原因しているのだ。
2010-10-17 00:52:20はっきり言ってしまおう。自分はサンデルとパウロが非常に類似していると思っている。彼らには溢れるばかりの正義への情熱はあるが、正義の具体的内容を言葉によって詳細に規定し、絶対化してしまうことは慎重に避けている。しかしそれでも、「福音」は宣べ伝えられるのだ。
2010-10-17 00:56:15