文学における自己、他者、他人についての考察

人の世界観はどう形成されていくかの一考察。
人文 文学 哲学
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牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
石原慎太郎『秘祭』(新潮文庫)を読んだ。かなり面白い。サスペンス小説としても、文化人類学な視点・感覚においても非凡。人口17人の孤島をリゾート化するために訪れた主人公が、いっけん平穏な村にひそむ禁忌・習俗にふれ、ついにあともどりできないところまで踏みこんでしまう。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
非劇的な結末を導くのは、ひとつに異文化のメカニズムであり、ひとつは村人の心中にある瞋恚だが、作者はどちらもあまり説明的に扱わず、むしろ情景や行動を重点的に描いていく。たぎるものが物語を貫いているのだが、それを設定(島の文化)にも内面(心の闇)へも送り返したりしない。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
異境のなかへ踏みこみ、いつのまにかあともどりできない地点を踏み越えてしまう。そういう小説だと、ぼくはポール・ボウルズがいちばん面白いと思う。ボウルズは共同体のメカニズムを経由せず、人と世界との界面をあらわにしてしまう。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
ボウルズに比べると、石原慎太郎『秘祭』も、あるいは安部公房『砂の女』も、共同体(土着性)が前提になっていて、そのぶんわかりやすいのだが、ちょっと迂遠な感じがする。それはぼくの嗜好というか志向の問題なのだが。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
奥泉光さんだったと思うけど、「共同体の文学」と「宇宙論の文学」というような分け方をしていて、ああ、なるほどと思った。外見的なことやジャンル分けは別にして、ぼくはほぼ「宇宙論の文学」が出発点で、共同体の問題はあくまで局所的な(もしくは中間的な)問題だという感覚がある。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
もちろん、ここでいう宇宙とは、ロケットを打ち上げたりするとかそういことではない。ぼくにとってはボルヘスはもちろん、カフカも「宇宙論の文学」なので。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
これはぼくが勝手に措定しているだけなのだけど、文学を読むうえで「他者の問題系」と「他人の問題系」という極がある。前者はどちらかといえば「宇宙論」的な地平において、後者はどちらかといえば「共同体」的な地平において現出する。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
長いあいだ、ぼくは「他人の問題系」というのがよくわからず、おさまりがよくないまま「他者の問題系」として考えていた。他者というのは突きつめていくと自分以外の世界であり、一方、他人というのは自分と同じ感情・欲望・権利を備えている存在だ。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』(創元SF文庫)が面白かったのは、「他者の問題系」と「他人の問題系」とを平行して扱ってる点だ。ぼくにとって、あの作品は宇宙・現在パートと地球・過去パートにどちらも重要。両パートが相補的にテーマを挟み撃ちしている。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
いっぽう、「他者」という感覚がわからないひともけっこういるようだ。これは批判的に言うのではないけれど、小説に共感や感情移入を求めるひとは、人間(もしくはキャラ一般)はみな「他人」(自分と同型的な存在)と思っている――というか前提すぎて疑うこともない――のだろう。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
じつはぼくもよくわからないんです。 RT @tolle_et_lege 牧さんの話はちょっと難しくてよく判らない。もしかしたら、私が他者しか認識できないからかも知れない。他人に関心がないのか認識できないのか。小説に他人なんて出てくるかな……という感じ。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
ただ「他人」という考えかたをすると、うまく読める作品があると思っています。 @tolle_et_lege
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
たとえば、ソラリスの海は絶対なる「他者」で、主人公ケルビンの記憶のなかにある恋人ハリーは振り払えない「他人」。しかし、いまケルヴィンの目の前にあらわれたハリーは「他者」か「他人」か決定できない。 @tolle_et_lege
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
はい。RT @okiraku_k対して「他者」というのは、自分と同じような「意志」を感じられない(理解できない)。つまり自分にとっては「環境」(≒自分以外)と同じような認識で構わないもの。―牧さんの言われる「他者」「他人」とはこんな感じでしょうか? @tolle_et_lege
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中野善夫 @tolle_et_lege
そのまんまの自分でいられないこの圧力は何なのかを考えるべきである。まあ、どうでもいいんだけど(いや、よくない)。
中野善夫 @tolle_et_lege
気づかないから逃れにくく、気づいた方が逃れやすいのかと思っていました。 “@ShindyMonkey: その圧力がくる方向が「他人」でしょう。気づかなければなんでもないが、気づいてしまうと逃れにくい。”
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
ああ、そうかも。「他人」が自明化してしまうと「自分」と区別できなくなりますからね。その点、「他者」は自明化しませんから、問題が把握しやすい。「他人」はややこしいです。 RT @tolle_et_lege 気づかないから逃れにくく、気づいた方が逃れやすいのかと思っていました。
中野善夫 @tolle_et_lege
「他人」と「他者」問題がまだ自分の中で整理できていない……
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
半可通の我流理解なんですが、人間の発達段階の最初期において、「自分」と「世界」とが分化していく。身のまわりの「世界」は「自分」とつながっているところもあるんだけど、その接続がとれない彼方があって、それが「他者」。「他者」はさまざまな局面に、さまざまなかたちで現れる。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
いっぽう、「世界」内には、「自分」ではなけれど、どうやら「自分」と同様の欲望・情動・権利を有する何者かがいるらしい。それが「他人」。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
ひとは「自分」を顧みながら、「他人」をわかろうろするのだけど、じゅうぶんにわかりきれない。かといって「他人」を「世界」の彼方(すなわち「他者」)に留めておくこともできない。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
ややこしいのは、そもそもの起源である「自分」/「世界」分化のときに、すでに「他人」が関与していることだ。未分化から分化への移行をうながすのは、たいてい親という「他人」だ。もちろん、未分化段階では親を「他人」と意識することはない。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
おおよそ近代的な思考は、「自分」を出発点とするか(デカルト的な地平?)、「世界」を出発点とするか(科学的な地平?)で、それが一般に浸透(退行的に規範化?)することで、「自分」/「世界」の分化という起源が覆いかくされてしまう。
牧眞司(shinji maki) @ShindyMonkey
フッサールの現象学はその起源を問い直す思考だろう。 ――なんてことを、ぼくは考えているわけです。あくまで我流なので、厳密ではないし、言葉の使い方も不適当かもしれません。
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コメント

伊藤正一 @awaroba 2014年1月16日
まとめを更新しました。
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