石原慎太郎『秘祭』(新潮文庫)を読んだ。かなり面白い。サスペンス小説としても、文化人類学な視点・感覚においても非凡。人口17人の孤島をリゾート化するために訪れた主人公が、いっけん平穏な村にひそむ禁忌・習俗にふれ、ついにあともどりできないところまで踏みこんでしまう。
2013-12-25 18:26:18非劇的な結末を導くのは、ひとつに異文化のメカニズムであり、ひとつは村人の心中にある瞋恚だが、作者はどちらもあまり説明的に扱わず、むしろ情景や行動を重点的に描いていく。たぎるものが物語を貫いているのだが、それを設定(島の文化)にも内面(心の闇)へも送り返したりしない。
2013-12-25 18:28:26異境のなかへ踏みこみ、いつのまにかあともどりできない地点を踏み越えてしまう。そういう小説だと、ぼくはポール・ボウルズがいちばん面白いと思う。ボウルズは共同体のメカニズムを経由せず、人と世界との界面をあらわにしてしまう。
2013-12-25 18:42:04ボウルズに比べると、石原慎太郎『秘祭』も、あるいは安部公房『砂の女』も、共同体(土着性)が前提になっていて、そのぶんわかりやすいのだが、ちょっと迂遠な感じがする。それはぼくの嗜好というか志向の問題なのだが。
2013-12-25 18:42:36奥泉光さんだったと思うけど、「共同体の文学」と「宇宙論の文学」というような分け方をしていて、ああ、なるほどと思った。外見的なことやジャンル分けは別にして、ぼくはほぼ「宇宙論の文学」が出発点で、共同体の問題はあくまで局所的な(もしくは中間的な)問題だという感覚がある。
2013-12-25 18:49:16もちろん、ここでいう宇宙とは、ロケットを打ち上げたりするとかそういことではない。ぼくにとってはボルヘスはもちろん、カフカも「宇宙論の文学」なので。
2013-12-25 18:49:31これはぼくが勝手に措定しているだけなのだけど、文学を読むうえで「他者の問題系」と「他人の問題系」という極がある。前者はどちらかといえば「宇宙論」的な地平において、後者はどちらかといえば「共同体」的な地平において現出する。
2013-12-25 19:05:30長いあいだ、ぼくは「他人の問題系」というのがよくわからず、おさまりがよくないまま「他者の問題系」として考えていた。他者というのは突きつめていくと自分以外の世界であり、一方、他人というのは自分と同じ感情・欲望・権利を備えている存在だ。
2013-12-25 19:05:59ピーター・ワッツ『ブラインドサイト』(創元SF文庫)が面白かったのは、「他者の問題系」と「他人の問題系」とを平行して扱ってる点だ。ぼくにとって、あの作品は宇宙・現在パートと地球・過去パートにどちらも重要。両パートが相補的にテーマを挟み撃ちしている。
2013-12-25 19:06:36いっぽう、「他者」という感覚がわからないひともけっこういるようだ。これは批判的に言うのではないけれど、小説に共感や感情移入を求めるひとは、人間(もしくはキャラ一般)はみな「他人」(自分と同型的な存在)と思っている――というか前提すぎて疑うこともない――のだろう。
2013-12-25 19:16:04じつはぼくもよくわからないんです。 RT @tolle_et_lege 牧さんの話はちょっと難しくてよく判らない。もしかしたら、私が他者しか認識できないからかも知れない。他人に関心がないのか認識できないのか。小説に他人なんて出てくるかな……という感じ。
2013-12-25 22:07:40ただ「他人」という考えかたをすると、うまく読める作品があると思っています。 @tolle_et_lege
2013-12-25 22:08:12たとえば、ソラリスの海は絶対なる「他者」で、主人公ケルビンの記憶のなかにある恋人ハリーは振り払えない「他人」。しかし、いまケルヴィンの目の前にあらわれたハリーは「他者」か「他人」か決定できない。 @tolle_et_lege
2013-12-25 22:09:24はい。RT @okiraku_k対して「他者」というのは、自分と同じような「意志」を感じられない(理解できない)。つまり自分にとっては「環境」(≒自分以外)と同じような認識で構わないもの。―牧さんの言われる「他者」「他人」とはこんな感じでしょうか? @tolle_et_lege
2013-12-25 22:55:56【拡散希望】各紙書評で絶賛され「本の雑誌増刊 文庫王国2014」で第2回オリジナル文庫大賞を受賞した『know』(野﨑まど著)。その冒頭50ページを特別公開いたします。年末年始に読む本を検討中の皆様、ぜひ試し読みをしてみてください! http://t.co/I3hA089qrC
2013-12-27 18:33:56気づかないから逃れにくく、気づいた方が逃れやすいのかと思っていました。 “@ShindyMonkey: その圧力がくる方向が「他人」でしょう。気づかなければなんでもないが、気づいてしまうと逃れにくい。”
2014-01-03 09:25:40ああ、そうかも。「他人」が自明化してしまうと「自分」と区別できなくなりますからね。その点、「他者」は自明化しませんから、問題が把握しやすい。「他人」はややこしいです。 RT @tolle_et_lege 気づかないから逃れにくく、気づいた方が逃れやすいのかと思っていました。
2014-01-03 09:29:21半可通の我流理解なんですが、人間の発達段階の最初期において、「自分」と「世界」とが分化していく。身のまわりの「世界」は「自分」とつながっているところもあるんだけど、その接続がとれない彼方があって、それが「他者」。「他者」はさまざまな局面に、さまざまなかたちで現れる。
2014-01-03 09:48:38いっぽう、「世界」内には、「自分」ではなけれど、どうやら「自分」と同様の欲望・情動・権利を有する何者かがいるらしい。それが「他人」。
2014-01-03 09:49:04ひとは「自分」を顧みながら、「他人」をわかろうろするのだけど、じゅうぶんにわかりきれない。かといって「他人」を「世界」の彼方(すなわち「他者」)に留めておくこともできない。
2014-01-03 09:49:43ややこしいのは、そもそもの起源である「自分」/「世界」分化のときに、すでに「他人」が関与していることだ。未分化から分化への移行をうながすのは、たいてい親という「他人」だ。もちろん、未分化段階では親を「他人」と意識することはない。
2014-01-03 09:50:17おおよそ近代的な思考は、「自分」を出発点とするか(デカルト的な地平?)、「世界」を出発点とするか(科学的な地平?)で、それが一般に浸透(退行的に規範化?)することで、「自分」/「世界」の分化という起源が覆いかくされてしまう。
2014-01-03 10:00:51フッサールの現象学はその起源を問い直す思考だろう。 ――なんてことを、ぼくは考えているわけです。あくまで我流なので、厳密ではないし、言葉の使い方も不適当かもしれません。
2014-01-03 10:01:09