ろじたんのmeについての独り言

らしい ひたすら続くと思われる
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じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

私の頭の中の整理がてら、ロジバンにおける単数と複数について呟いていきます。

2014-01-06 00:00:28
じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

「複数形」と言われると、その対象は「単数なものを寄せ集めたもの」と考えるのが多分普通だよね?漫画で描くとこんな感じに: …しかし、これだと群れとか分配性とかがあまり上手く扱えないのです。 http://t.co/nfvKlGNGHX

2014-01-06 00:05:58
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じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

ロジバンの採用している述語論理の拡張方法のひとつに、「複数は複数で、単数と同じような仕方で参照していると考える」というのがあります。しかし、変な話ですね。単数は単数だから、「ひとつの対象」と対応するのは分かりますが、複数なのに単数と同じように対象と対応させていくなんて。

2014-01-06 00:08:40
じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

しかし、単数とか複数だとかはとりあえず置いておいて、「とにかくひとつの記号には何らかの一つの対象があるはずだ」と考えれば、なるほど、'AとB'という複数の形にも AとB という対象があると考えるのはなんだかよさそうです。 http://t.co/IwibJk36tR

2014-01-06 00:13:01
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絵と本文で若干解離してますね。
絵が言いたいのは、「'AとB'という記号は複数なものであるから、単純に「AとB」だけに対応するとは限らないし、どこに繋げばいいんだろう?」くらいのことだと思います。そのことは後で出てくるので飛ばして読んでいいと思います。

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

直感的には「複数というのは単数にある操作をなすことで作れるわけだから、複数は単数へと解いてやることができる」と思うところを、ばっさりと「複数もひとつのれっきとした記号で、単数に還元できるとかそういうのでは(ひとまず)ないんだよ」と言うわけです。' 複数 'は複数ではなくなったのだ

2014-01-06 00:15:45

(ひとまず)とつけてますが、これからも恐らくありませんね。

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

この立場において、複数が単数を「包含する」という考えは滑稽です。包含もなにも、別物です。今まで単数のa, b があったところに、複数の c がきたようなものです。「単数とか複数は置いといて」と言ったのはこのためです。本当にとりあえず置いとくのです。

2014-01-06 00:17:54

今のところ、単数と複数の差といえば「ラベル」だけです。複数に貼られているラベルのほうが「ちょっと長い」。それだけの違いなので、たしかに包含とか意味わかんないですよね。

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

今こそ、「複数」を復活させるべきです!…と言いたいところですが、その前にそもそもなんでこんな話をしなくてはならないかについて考えましょう。 ・'桃太郎と犬と猿と雉' は鬼を退治した。 ・'桃太郎と犬と猿と雉' は動物だ。 …どちらの文にも'桃太郎と犬と猿と雉'というのがありますが

2014-01-06 00:25:19
じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

これらの '桃太郎と犬と猿と雉' は本当に同じような仕方で文に貢献してるでしょうか?! うーん、なんだか違いますね。前者は「全員で」、後者は「それぞれ」…みたいに解説したくなります。さて、この違いをどうやって説明しましょう? 前者と後者での働きの違いは何?

2014-01-06 00:27:06
じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

…という背景があって、本題に戻ります。要はこういうことです:字面が「複数」なものって、<場合によって参照先違くない?> もう少し言えば、単数のときと参照の具合が異質じゃない?

2014-01-06 00:29:23

注意したいのが、「場合によって参照先が違う」というのはdistributiveかcollectiveかの違いのことであって、distributive内の参照先の多様性のことではありません。

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

そう。(素直に受け取ってもらえることを願っていえば)複数は単数と違って、多数の対象を参照することが可能なのです。「桃太郎たちが動物だ」というあの文に「それぞれ」と解説したくなったのはそのためです。 http://t.co/jXEDC4dY1R

2014-01-06 00:33:11
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「素直に受け取ってもらえない」とはおおよそこういうことでしょう:
「単数だって文脈によっては参照先がコロコロ変わりうる」

ここで言いたいのは、参照先がころころ変わりうるというよりは
参照先が二重三重にもあるということだと思われます。

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

このイラストの赤い線、すなわち「記号がどの対象を参照するのか」というのを"denote"ということにしましょう。つまり、'A'という記号はAをdenoteし、'AとB'という記号はAをdenoteし、AとBをdenoteし、Bをdenoteしています。

2014-01-06 00:34:47

x1 denote x2 は 「x1はx2の外延を表す」で、
大体「x1はx2を参照する」くらいの意味で取りましょう。

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

どうやら、複数の挙動の違いというのはこのdenoteの差と言えそうです。ここで、distributiveなdenoteとして denote_d を、collectiveなdenoteとして denote_c を定義してみます。

2014-01-06 00:36:26
じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

'AとBとC' がdenote_d するのは、「A」「B」「C」「AとB」「BとC」「CとA」「AとBとC」という対象です。一方で、'AとBとC'がdenote_c するのは「AとBとC」だけです。ほうほう、これであの桃太郎文の差が説明できそうです。

2014-01-06 00:38:04
じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

すなわち、「鬼退治」の文では '桃太郎と犬と猿と雉'はdenote_cしていて、「動物」の文ではその記号はdenote_d していたのです。ここに、distributiveとnon-distributiveが出てきます。つまり、ロジバンの群れ(mass)の起源です。

2014-01-06 00:39:58
じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

イラストにするとこんな感じ。どんな文であっても、複数は複数なのです。ただdenoteの仕方(もしくはdenoteの種類)が違うという考え方は、少し直観に反しますが、すぐ受け入れられるほどのものでしょう。 http://t.co/vk6nAbnlVh

2014-01-06 00:43:53
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文が変ですね。
「ただdenoteの仕方(もしくはdenoteの種類)が違うというだけです。この考え方は、…」

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

(実はここからが本番)さて、denoteはPSっぽいものを書けば、「x1(記号) はx2(対象)をdenoteする(≒参照する)」ってな感じです。しかし、x1には記号を入れないといけないわけですから、ちょっと使いにくいですよね? というわけで、これを便利にした形を定義しましょう

2014-01-06 00:46:19

この記号と対象を区別しよう!というのはQuine流っぽいですね。詳しくは知りませんが…。
ろじたんの読んだ"Plural logic"という本にはそういったQuine流の記号と対象を出してくる必要は特にないだろうということで、以下で記号を使わないバージョンを定義しています。

じぼ子 .jbonix. @lojytan_bot

('a'の参照先はあるとして) 'a' denote_d b iff b are among a という風に"are among"を定義しましょう。"among"の表現だと、どちらも記号ではなく対象を入れればいいので楽ちんです。…これの意味ってなんだろう?

2014-01-06 00:48:19