2014年1月6日

『本能寺の変 431年目の真実』を斬る!

『本能寺の変 431年目の真実』を読んで、気になった点を。
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のいまご @noimago

【431】「思い込みの前提条件から答を先に作って、それに合いそうな証拠を探すというのは本末転倒であり、犯罪捜査であれば冤罪作りです。(p10)」 言ってることは真っ当だが、しかし…。

2013-12-26 23:23:14
のいまご @noimago

【431】「高柳光寿著『明智光秀』は五十年以上前に出版された本だ。(中略)研究者にとってはバイブルのような存在であり続けている。(p47)」 …そうなの? 今では前提に過ぎない本だと思うが…。

2013-12-26 23:26:28
のいまご @noimago

【431】「光秀が藤孝に仕える軽輩の家臣だったという事実は、今までの定説にはない話だ。(p61)」 定説にはなってないが、散々語られている話であり、目新しさは皆無である。

2013-12-26 23:29:25
のいまご @noimago

【431】「最後の美濃守護頼芸の追放は、本能寺の変のわずか三十年前のことだ。だから秀吉が解説をつけなくても、当時の人々は「時は今あめが下しる」とくれば、それが光秀の天下取りを示すものだと分かったのだ。(p100)」 30年前のことを、あなた、どれだけ憶えていますか?

2013-12-26 23:34:19
のいまご @noimago

【431】「信長が取り次ぎ役の光秀をないがしろにして長宗我部征伐を決定したため光秀の面目がつぶれ、出世の見込みが絶たれたことが謀反の原因だと唱える研究者もいるが、これでは新聞の三面記事だ。(p117)」 面目と出世をくっつけて考えている研究者はあまりいないと思うが…。

2013-12-26 23:41:07
のいまご @noimago

【431】「信長は六月四日に西国に出陣すると公家衆に語っていた(『日々記』)。とすると、安土城には出陣準備を整えた織田軍が集結しつつあったはずだ。(p145)」 信長がすでに京にいるのに、なぜ安土に集結する必要があるのか? 意味不明。

2013-12-26 23:41:55
のいまご @noimago

【431】「そして信長は堺まで遊覧していた家康と重臣ら四十人ほどを六月二日京都本能寺へ呼び寄せ、信長が席を外したすきに光秀の手勢に家康一行を一網打尽に討ち果たさせ、そして直ちに、光秀・筒井順慶の軍勢を徳川領に侵攻させる命令を発したのだ。(p153)」

2013-12-26 23:46:50
のいまご @noimago

【431】なぜ駿三遠を攻めるのに、わざわざ畿内の兵を動かすのか? 相手に時間を与えるだけであり、下策としか言い様がない。

2013-12-26 23:48:38
のいまご @noimago

【431】「信長は六月一日に本能寺でも、公家衆にわざわざ「六月四日に中国へ出陣する」と語っている。これも家康を欺くためのカムフラージュであろう。このとき信長本人は中国に出陣するつもりはなかったのだ。(p158)」

2013-12-27 00:01:35
のいまご @noimago

【431】『信長公記』と『惟任退治記』の内容が食い違っている云々あるが、信長の発言のほうが時系列的に後だということが全く考慮されていない。

2013-12-27 00:10:11
のいまご @noimago

【431】「家康一行の人数は穴山梅雪らも加えて、四、五十人になる。四、五十人が二、三十人を襲うことはあり得ると誰もが納得したであろう。(p162)」 生きて帰れる保証が全く無いのに? しかも同行していた信忠が京に戻っているのに? それで誰が「あり得る」と思うのか?

2013-12-27 00:15:03
のいまご @noimago

【431】「二月に信長が諸将に出した命令には光秀、筒井順慶、細川忠興といった光秀軍の幹部に信長との同行を指示している。(p165)」 武田征伐に同行した武将のうち、この三人だけをことさら強調している。実際の条々では他に池田恒興の子供(元助)、中川清秀らにも命じている。

2014-01-06 22:08:07
のいまご @noimago

【431】そして同行したのは先に挙げた面々の他にも、蒲生氏郷、高山右近、蜂屋頼隆、丹羽長秀などがいる。光秀らに家康領を視察させるのが目的だったというが、それなら他の武将は何のために同行したのか? みんな視察か?

2014-01-06 22:13:39
のいまご @noimago

【431】「信長の武田攻めに安土から同行して帰路の同行を拒否された人物がいる。それは公家の近衛前久である。(中略)信長とすれば公家の同行は何としても困る。視察の目的を察知されてしまうからだ。(p167)」 家康領の視察を目論んだというが、なぜ近衛前久が察知できるのかは説明無し。

2013-12-27 00:19:58
のいまご @noimago

【431】「信長は平清盛や源頼朝の失敗の轍を踏んでしまってはならないと肝に銘じていたのであろう。だから自分が死んで子の代になったときに危険な人物がいれば自分の生きている間に処分するのが戦国武将としての自分の責任と考えたに違いない。→

2013-12-27 00:22:16
のいまご @noimago

【431】その取り除かねばならない人物こそ徳川家康と信長は判断したのだ。(p175)」 とするが、その理由として挙げているのが、秀吉が家康を討たなかったために、秀頼の代で滅んだという話である。さて、この本の冒頭に何と書いてあったか…。

2013-12-27 00:24:56
のいまご @noimago

【431】「一方『言経卿記』は、六月五日から十二日までの記録がなぜか失われている。(中略)言経は何らかの理由で、この部分を破り捨てたとみられる。(p204)」 勝手な想像とはいえ、吉田兼見と比べて、やることが雑すぎるだろう。そしてもちろんだが、原本に破った跡など見えない。

2013-12-27 00:48:05
のいまご @noimago

【431】「上洛して本能寺に入った信長を、事変前日の六月一日に公家衆が大挙して訪問した。朝廷の公家はほぼ全員出席という行事だったにもかかわらず、兼見だけは訪問しなかったのだ。(p209)」 兼見「だけ」と書いているが、もちろん他にも欠席した公家は存在する。

2013-12-27 00:59:52
のいまご @noimago

【431】「ただし、この書状は細川家が家記として編纂した、いわくつきの『綿考輯録』に集録されたものだ。筆跡や花押から判断して偽物とする説もあって、そのまま信用することはできない。光秀の実際の書状を細川家が都合の悪い部分を書き換えて集録した可能性もある。(p217)」

2014-01-06 22:18:19
のいまご @noimago

【431】本能寺の変後、光秀が細川父子に送ったあの有名な書状について。…もしかして文書が存在することを知らない?

2014-01-06 22:20:40
のいまご @noimago

【431】「家康があわてて上洛した様子が書かれているが、後日の追記に「これは信長御生害を知りて計略を云て上洛也」とある。やはり家康の行動は事前に本能寺の変の勃発を知ってのものと当時の人は疑っていたのだ。(p227)」

2014-01-06 22:22:49
のいまご @noimago

【431】本能寺の変後の家康の行動を記した宇野主水の日記について。第三者がこんなにハッキリと疑えるレベルだったら、なぜその後、家康は詰問や糾弾をされていないのか? またこんな疑いがあれば、秀吉が有効利用していてもおかしくない。

2014-01-06 22:27:49
のいまご @noimago

【431】「山岡兄弟の行動にこだわる理由はもうひとつある。徳川家の公式記録である『徳川実紀』によると山岡兄弟の妹は光秀の嫡男・光慶の許嫁と書かれている。(p253)」 理系を称すなら、せめて山岡兄弟の年齢ぐらい調べて検討しましょうよ…。

2014-01-06 22:51:21
のいまご @noimago

【431】「その時点では安土城に明智秀満がいた。当然、家康は安土城の秀満とも連携をとろうとしたはずだ。家康は安土城へ支援部隊を送ったと考えられる。(p259)」 『多聞院日記』の「家康既至安土著陣云々」の「云々」という伝聞表現を無視している。

2014-01-06 23:01:14
のいまご @noimago

【431】たとえば三日に「細川殿モ生害云々」と書かれており、「云々」と付いているのは、虚実確認できない情報を書いているに過ぎない。

2014-01-06 23:03:54
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