- okura_mikura
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板垣英憲センセイ、「大東亜戦争(日中戦争、太平洋戦争など複合的戦争)」とか書いちゃってるけど、それ戦時中の日本政府公式ですらないから。日中戦争と対米英戦は別という扱い
2014-01-09 21:19:29. @dragoner_JP あれ、対米英戦と日中戦争はまとめて大東亜戦争扱いではありません?昭和16年12月10日閣議決定「一、今次ノ対米英戦争及今後情勢ノ推移ニ伴ヒ生起スルコトアルヘキ戦争ハ支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」(略)http://t.co/an4BKjQfEa
2014-01-10 00:38:24100万超える兵力を、長期に渡って大陸に送り続けていたんだものなあ……。日中戦争は米英戦に比べ、軽んじられすぎだと思う
2014-01-10 01:13:42大日本帝国の軍事的経済的破綻の原因ですもんねえ。大陸打通作戦なんか帝国陸軍史上最大の頭おかしすぎる規模ですし。 RT @dragoner_JP 100万超える兵力を、長期に渡って大陸に送り続けていたんだものなあ……。日中戦争は米英戦に比べ、軽んじられすぎだと思う
2014-01-10 01:36:50@tsukasafumio @dragoner_JP 陸軍「南方資源を運んでくるには、シンガポールから鉄道輸送しか手が無いんだ!」 ??「その前に何か考えることがあるんじゃないだろうか…」
2014-01-10 01:40:13昭和十二年、盧溝橋事件の起きた年における日本陸軍の常備兵力は17個師団。これを戦時動員で28個師団に増やす計画だった。この規模に落ち着くまで、西園寺内閣を潰したり宇垣軍縮で大リストラしたり軍務局長が斬殺されたり二.二六事件が起きたり、実にてんやわんやだったのである。
2014-01-10 01:46:40昭和十一年六月の帝国国防方針改訂で戦時50個師団が掲げられたが、その達成は昭和十七年が見込まれていた。ところが日中戦争のどさくさで昭和十六年に51個となり、そして昭和20年には171個、640万名に膨れ上がっている。
2014-01-10 01:50:48何人もの政治家や陸軍高官が倒れてなお達成できなかった軍拡がなされたわけだが、想定外の現実に追随するのが精一杯の場当たり的な拡大であった。つまり士官や下士官、専門職種、武器弾薬、馬匹や車両など、将来を見通した定数が必要なものが、すべて足りない水膨れになった。
2014-01-10 01:55:35なにしろ軍司令官すら足りない状態だったから、二.二六事件後にクビにした皇道派の柳川平助を現役復帰させている。ばつが悪かったのか報道発表で柳川の名は伏せられたため、柳川は謎の「覆面将軍」と呼ばれた。
2014-01-10 01:59:09この時代のマスメディアが将官につけた仇名は「覆面将軍」柳川平助の他に、「越境将軍」林銑十郎や「童貞将軍」植田謙吉がいるが、柳川がいちばんましだな。
2014-01-10 02:04:31中国戦線の日本軍の軍規の乱れとか、さらに慰安婦の問題など、元をたどればこの場当たり的な兵員数の水膨れに原因があった。日本陸軍の中央はソ連を仮想敵とした軍備拡張を計画していたが、こんなぐちゃぐちゃな軍拡は予測もしなければ望んでもいなかった。つまり軍拡という名の破綻である。
2014-01-10 02:10:05保阪正康氏が書いていたが、近衛文麿の迷走の裏には健康問題があったらしい。運転手の証言によれば第二次内閣の時には痔疾がかなり悪化していて、車中では後部座席に座っていられず、運転席に寄りかかった膝立ちでいることが多かったという。これは辛そうだな。
2014-01-10 02:16:14戦前の昭和時代については「悪い事をした」以前に「失敗した」ことへの国民レベルでの反省がされてこなかったんじゃないかな。
2014-01-10 02:44:06『歴史群像』誌で田村尚也氏が連載していた「各国陸軍の教範を読む」が最終回になった。まとめにも挙げられているが、帝国陸軍の作戦要務令の特異性が際立つ。
2014-01-11 01:56:23作戦要務令が精神力を過度に強調していることは知られているが、連載では各国の戦術教範から「いいとこ取り」をしながら総花的で、「判断の基準」が明示されていないことに特徴があるという。日本軍は判断の基準を教範に明文化せず、陸軍大学や参謀旅行、演習などの実地で指導していたのだ。
2014-01-11 02:00:30明文化しないというのは剣術の奥義伝授めいたものを感じるが、なぜそういう方法を採ったのだろうか。明文化しないということは、ドクトリンが審判官や教官の判断に委ねられた属人的なものとなるだろう。言い換えれば帝国陸軍のドクトリンは、陸軍大学や歩兵学校の人事だったということになる。
2014-01-11 02:03:45しかし藤井非三四『陸軍人事』で陸軍人事のぐだぐだぶりを見ると、ドクトリンの形成を阻害したことは想像される。大正14年陸大校長になった渡辺錠太郎は、一次大戦の戦訓をカリキュラムに反映しようとして鈴木荘六参謀総長らの逆鱗に触れ、旭川第七師団に左遷されたという。
2014-01-11 02:13:54@tsukasafumio 兵術を「術」として見て、「これが応用はその人に存す」とするのは必ずしも間違いではないのでしょうが、学問的発展という面で見ると明らかに停滞していたかと
2014-01-11 02:13:58@seibihei 異なる世代で兵術をどう共有したんでしょうかね。将官と幕僚のドクトリンが食い違ったら...って、沖縄三十二軍の八原参謀みたくなるわけですな。
2014-01-11 02:18:11@tsukasafumio その故に「天保銭組」が重視されて「覆面将軍」が復活したり、「作戦閥」が限られた人員のローテーションになったんじゃないでしょうか。
2014-01-11 02:23:19香港攻略戦で士官学校の英才若林東一中尉が英軍防御陣地の弱点を発見し、独断専行で高地を奪取し、攻略の端緒を作った。しかし第二十三軍司令部は作戦計画が卓袱台返しくらって怒る。ところが支那派遣軍の後宮総参謀長が、これは独断専行ではなく抗命だと激怒して懲罰人事が降りかかる。
2014-01-11 02:26:52災難なのは第二十三軍参謀長で、陸大の恩賜組で香港を攻略しながら進級が遅れ、中将になったものの一線を離れた留守近衛第二師団長という閑職に回され、さらに南の小さな火山島に飛ばされた。当時はヘタ打った左遷と見られたらしいが、この人が栗林忠道大将である。
2014-01-11 02:33:39