アートシーン(2014年)

2014年の展覧会その他美術に関するトゥイートを集約。
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sjo k. @sjo_k

府中市美術館の「O JUN―描く児」へ。展示室にみなぎる綺麗な緊張感。その源は、猥雑な現象界から最小限の描く/かれるべきものを精確にかつ鋭く掴み出す作家の直感/観力であると感じた。白眉は、寒漠たる流動に呑気な白の空間が張り付く《羽田》と、2011年の大津波を想わせる《B3》。

2014-01-11 18:45:00
sjo k. @sjo_k

東郷青児美術館の「クインテット」へ。五人展だが、観賞のエネルギーは、色斑と亀裂と微細な引っ掻きで独特の空間を創る川田祐子に集中した。いくつかの、とりわけ《赫映》と題された作品が、ステレオグラムのように立体的に見える。最初はその効果が面白くて、ただひたすら視ていた。【続く】

2014-01-12 20:06:16
sjo k. @sjo_k

【続き】ところが、凝視しているうち、気付くと立体感が消失していた。すると、絵は形を変え、印象派のようにもゴッホのようにも、ラッセンのようにさえ見えてくる。表層・深層の様々な美を取り込んだ、途方もない画面。そのうち、また立体感が戻ってくる。心地よい混乱の中、数十分は見詰めていた。

2014-01-12 20:06:59
sjo k. @sjo_k

東京都現代美術館の「吉岡徳仁―クリスタライズ」と「うさぎスマッシュ」とコレクション展へ。吉岡展。透き通ったもの、輝くもの、そして可視光のスペクトルを好むというのはヒトの本能的原始的な感情のような気がし、それを手放しで称揚するのはどうもすこし「幼稚」なのではないか、とふと思った。

2014-01-12 20:07:33
sjo k. @sjo_k

コレクション展、その日の起床時間のみを記した絵葉書を一定期間毎日送り続ける河原温の《I GOT UP》と、各地で採取した様々な色の砂を壜に詰めて陳列する栗田宏一の《ソイル・ライブラリー》が共鳴した。両者は、一定の行為を反復・継起し、その結果を可視化して展示する点において共通する。

2014-01-12 20:08:07
sjo k. @sjo_k

一定の単純な行為の(とりわけ時/空間的な拡がりの大きな)反復・継起は、それだけである種の「崇高」や「超越」を生み出す。さらに、その反復・継起の結果が効果的に集積されて陳列・展示された時、それは「美」術となる。私の前に、河原と栗田の作品は、確かにそういう「美の術」として現れていた。

2014-01-12 20:09:06
sjo k. @sjo_k

国立新美術館のDOMANI・明日展へ。榊原澄人のアニメーション、《É in Motion》シリーズに釘付けになった。めまぐるしく変化〔へんげ〕し、反復され、円環する、夢幻のようなイメージ。そこにさまざまに織り込まれた「死」を暗示または明示するモチーフ。ただ静かだが、ひたすら強烈。

2014-01-12 20:09:20
sjo k. @sjo_k

ガーディアン・ガーデンの下野薫子展へ。残念ながら響かず。美術を観る時、私には「(物)質感」こそが重要な問題なのだ、とあらためて想う。ポーラアネックスの「KIZASHI」へも。こちらも残念ながら。モチーフの「斬新」「大胆」が肥大するばかりでは、「伝統芸術」は革新されない、と感じた。

2014-01-20 13:21:15
sjo k. @sjo_k

Gallery 58の「秋山祐徳太子 大博覧会」へ。都知事選出馬パフォーマンスや東京芸大入試受験番号1番獲得パフォーマンスの諸資料をニヤニヤと眺めた。圧巻は、1985年の早稲田祭企画《畑中葉子VS秋山祐徳太子 政治対談「後から前から」》。ポスター展示限りなのが残念でならない(笑

2014-01-23 14:35:28
sjo k. @sjo_k

念のためだが、「後から前から」というのはこれhttp://t.co/V5B0ZWLXxY …のこと。「カナダからの手紙」からわずか2年半後のことで、当時1歳半だった私も大変なショックを受けたものである。←奇跡の早熟 ちなみに、「後から前から」の次に出した曲は「もっと動いて」(笑

2014-01-23 14:35:48
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sjo k. @sjo_k

上野の森美術館の遠藤彰子展へ。2年前に旧新橋停車場で観た時に引き付けられたのと同じ傾向の作品にやはり惹かれる。回廊と階段と部屋が重層する夢想的な空間。行き交い、立ち止まり、遊び、語らう、おびただしい数の人物。2年前には「夢想的な風景なのに、生活感に満ちているのが魅力的」と書いた。

2014-01-26 21:16:44
sjo k. @sjo_k

今回観ている時には、その感想はすっかり忘れていて、また新しく〈何に引き付けられるのか〉を考えていた。そもそも、この作家の“絵柄”は、あまり好みではない。引き付けられているのは空間の構造だ、と真っ先に思った。しかし、では、私はその空間構造をなぜ魅力的だと感じているのだろうか。

2014-01-26 21:17:03
sjo k. @sjo_k

浮かんだのは、「意識の下降」という言葉。画面は上から覗き下ろす視点で描かれており、それが、風景の重層性と相俟って、観る者の意識を下へ下へ、深く深くへと誘う。この〈高みから(どこまでも)下を覗き込んでいる感覚〉が、私を作品に引き付けているものの一つではある、とまず思った。

2014-01-26 21:17:44
sjo k. @sjo_k

もう一つ、回廊に階段に部屋にあふれかえる、見知らぬ他者たち。部屋の中に在っても、その窓や扉は多くの場合開け放たれ、私は彼・彼女らを自由に、一方的に視下ろすことができる。そこに生じる優越感、万能感の存在を思った。だが、彼・彼女らは、私には統御できぬ生を生きる、圧倒的他者でもある。

2014-01-26 21:17:59
sjo k. @sjo_k

そのような圧倒的他者の群れは、私にある種の恐怖、畏怖の感情を催させる。このあたりで浮上してきた言葉が、「スリル」であった。高所からついつい下を覗き込んでしまう時、他者の生活を一方的に覗き見する時、そして、雑踏の中で圧倒的他者の群れに囲われる時。そこにあるのは緊張感、スリルである。

2014-01-26 21:18:13
sjo k. @sjo_k

つまり私は、遠藤の作品に、適切に管理された「マイルドなスリル」を覚え、それに酔っていたのではなかったか。・・・と、ここまで書いてはみたものの、書き尽くせなかったような、書き過ぎたような、とにかく収まりの悪さが残された。しかし、今日辿り着けたのは、とりあえずここまでである。

2014-01-26 21:18:49
sjo k. @sjo_k

最後に、以上の話とは別の話。一つ目の大部屋には超大型の作品が高密度で展示されていて、ここはやはり(作品の内容を超越した)強い力に満ちていた。バカでかい絵は基本的に、内容云々とは無関係に、それだけで力を持つ。作家がそれにかたむけた精神量や感情量がわかりやすく実体化されるからだろう。

2014-01-26 21:19:30
sjo k. @sjo_k

ニューオータニ美術館の野見山暁治展へ。彩度が低く重い色。もっさりとした形象の色面。「鈍い」絵だ、と思う。しかし、鋭い刃物でなく、鈍い拳でもダメージは与えられるように、長くゆっくりと効いてくるところがある。どうも紫色ばかりが気になり、《重い時間》《これだけの一日》に引き付けられた。

2014-02-02 17:58:17
sjo k. @sjo_k

東郷青児美術館のFACE2014へ。肖像の(顔のない)顔面から青・赤・黄の線が幾重にも伸び散る北村早紀の作品が印象的。田中敦子の円・線画の具象化だ、と直感した。次に行く国立近代の収蔵品展で田中の作品を観て、その感覚はまさに裏付けられることになる。本当にそっくりではないか、と。

2014-03-23 11:00:46
sjo k. @sjo_k

ふと、私は色彩を〈消費〉して生きているのではないか、という思いにかられる。絵画に、雑貨屋の棚に、猥雑な街並みに。そして、それは非競合性と非排除性を兼ね備えているという意味で、純粋公共財に擬することができるのではないか…とまで考えたところで、いかにも不毛だと気付いて、やめにした。

2014-03-23 11:01:07
sjo k. @sjo_k

上野の森美術館のVOCA2014へも。(同じく「選考」展であるFACEともども、)今年は、残念ながら印象的な作品はほとんどなかった。〈人間の精神の切っ先〉にあると思わせる作品がなかった、とも言えるか。わずかに、佐藤香菜の「マブイグミ」と題された2枚の鹿の絵に目が止まる。

2014-03-23 11:02:05
sjo k. @sjo_k

東京国立近代美術館の工藤哲巳回顧展へも。表現の不気味さに反して「(悪い意味で)心地よい」作品が多かった。それはたぶん「わかりやすさ」から来ている。50年前には衝撃をもって迎えら/拒絶されたのであろう作品は、2014年の今、すっかり陳腐なものとなり、すんなり咀嚼されてしまうのだ。

2014-03-23 11:02:19
sjo k. @sjo_k

言い方を変えれば、〈表現したいこと〉と〈作品として現れているもの〉があまりになめらかにつながってしまっている状態が「わかりやすい」なのだろう。両者の間に、かつてない、なめらかでない、強いつながりを不断に築き続けることこそが、美術という営みの本体なのかもしれない、と思った。

2014-03-23 11:03:46
sjo k. @sjo_k

国立近代の「泥とジェリー」展で、白髪一雄の制作風景を収めた映像を観たのだが、「視てしまった」という感じ。隣に掲げられた作品のすさまじい「強さ」に比べて、その光景はあまりに弱く、矮小なものでしかなかった。作家の生活や作品の制作過程など知らない方がよい、という場合は確かにある。

2014-03-23 11:27:37
sjo k. @sjo_k

松濤美術館のハイレッド・センター展へ。昨日の工藤展ともども、これが「60年代の雰囲気」なのだろうな、とは思う。しかるに工藤展のような「陳腐化」をほとんど感じなかったのは、狙いどころや表現方法が鋭いからなのか、あるいは、「行為/動」(の記録)という方法にメリットがあるのか。

2014-03-23 23:02:08