【感動の消費について】 ①この四半世紀ほどのことと思うのだが、日本人はやたらと「感動」を求めている。何かに心を揺り動かされるという体験は、有史以来あることだし、そのこと自体が悪いわけではない。ただ僕が思うのは、やたらとこの社会は「感動を求めている」ということなのだ。
2014-01-16 11:55:34②ある時は予想の帰結として、ある時は思いがけず、何かの状況に直面し心を揺さぶられる。この時、我われは「感動する」というけれど、これは動詞表現であることに意味があるのではないか。心が震えるというのは、「主体的な」営みだからこそ価値があるのではないか。
2014-01-16 11:56:11③誰かの行為について、自分の経験と重ね合わせて感情を「移入」した結果、我われは感動するというのが、もともと「感動」の含意だと思う。しかしながら昨今の風潮は、感動を、外部から「与えられる」情緒的な心の揺れにしか捉えていない、そしてそのことに日本人は慣れきっている。
2014-01-16 11:56:47④個人的な経験で言えば、仕事がら若者に「泣ける小説を教えてください」などと聞かれるのだが、すごく違和感がある。「君ら、わざわざ泣くために読むのか?」と問い返したい気になる。 彼らは「感動を消費」したい、「感動を紹介」してくださいと僕に哀願しているのである。
2014-01-16 11:58:31⑤もちろん彼らの折角の読書熱を奪ってはいけないので、いつも何冊か紹介するが、「今日はこの映画見て、泣くねん」「泣きたい気分だからこれを聴くわ」といったやり取りについて身に覚えのある方も多いのではなかろうか。いったい読書したり映画を見たり音楽を聴いたりする主体はどこに行ったのか?
2014-01-16 11:59:41⑥国際スポーツ・イヴェントのさいに耳にする「感動をありがとう」というフレーズ。僕はこれも好きではない、というか、あまりに愚かじゃないかと思う。なぜなら、この言説には「感動させて!」という大衆の受動性、消費中心の心性が見え隠れしているからだ。
2014-01-16 12:00:43⑦一方、スポーツ選手の方も「日本中に感動を与えたい」などと淡々と述べるし、私たちもそれを割とすんなり受け取っている。何かにつけ、我われは感動させられたがっている。しかし、これは客観的に見れば病んでいるとしか言いようがない。この感動の大安売り、そろそろ店じまいにしませんか?
2014-01-16 12:01:55⑧“なぜ心を「わざわざ」揺さぶられたいんだ?”という思いなしに、ただただ感動商品を待つ態度には、どこか危険なものさえ感じられる。それは、意識より情緒、理性より感性を優先する言動を招くからだ。思考停止さえも「善」とするような風潮を呼ぶからだ。
2014-01-16 12:03:45⑨2001年、小泉元首相は、大相撲に負傷をおして出場し優勝した貴乃花を祝して土俵でこう絶叫した。「痛みに耐えてよくがんばった! 感動した! おめでとう!」メディアはこの直言を好意的に伝え、またこの「感動した!」は流行語になったが、この頃から我々の「病」は進行していたのではないか?
2014-01-16 12:06:18⑩大げさな、と笑えるだろうか。しかしながら、しばしば市民社会の過ちは、意識や理性、合理的思考よりも、情緒・感性を優先したさいに訪れたことを思い出そう。戦争、虐殺、原発、差別。落ち着けば是非がわかることであっても、心を激しく揺さぶられた時、我々はそんなに自分を強く保っていられるか?
2014-01-16 12:07:08⑪僕自身には、情緒・感性に流される弱さがある。明らかにある。だからこそ学び続けて、何を見るにしても批判精神を忘れてはならないと考えている。なぜ嬉しいと思うのか、なぜ涙が出るのか、この僕の感情的な営みは、どれほど時代の創った構造に規定されているのかと。
2014-01-16 12:07:46⑫「先生、そんなことばかり考えていたら窮屈じゃないですか?」確かにね。でも、だからこそ色々なものが見えてくる。ややこしい考えかもしれないが、僕も40年以上生きてきた。一喜一憂するより、僕の生きる世界を落ち着いて眺めて、君たちに何かをつたえたい。少しくらい窮屈でちょうどいいよ。
2014-01-16 12:08:38⑬「泣ける」「イイね!」の連呼、連打。時にはそれもいい。しかし後で振り返って考えてほしい。 なぜ泣きたいのか。なぜ泣けるのか。なぜイイと思うのか。愛国心を持ち出すまでもなく、我われの感性・心性はありのままではなく、歴史的産物だ。何も考えずに消費していて、その先に何が待っているか?
2014-01-16 12:10:27⑭成長すれば「なぜあんなに泣けたのか」「なぜあんなのがイイと思っていたのか」と首を捻ることがしばしばだ。願わくは、市民はお仕着せの「感動」に懐疑的であるように。理性と、これを形づくる種々の構造に目を向けるように。 そこから意識と行動は生まれる、いやそこからしか生まれないのだ。
2014-01-16 12:11:08