帯広畜産大学のとある教授は語る;「現実的」な認識とはどんな認識のことか? 「うつ病」という語をキーワードとして

@ynabe39さんのツイートの中で、一貫した話があったので、それをのせました。
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渡邊芳之 @ynabe39

むしろ「世界をありのままに見ようとする強さ」を皆に求める方が残酷かも。

2010-10-22 05:39:47
渡邊芳之 @ynabe39

親に殺される子が最後まで親を信じていたとして、それを「愚かな勘違い」と言えるか、いう意味はあるか。

2010-10-22 05:41:02
渡邊芳之 @ynabe39

「偏りを排して現実を直視する視点」と称するものも、往々にしてそれ独自の方向に歪んでいる。

2010-10-22 05:43:29
渡邊芳之 @ynabe39

一般的に、悲観的な方向に偏った認識ほど「現実的」と言われやすいし、本人もそう信じている。

2010-10-22 05:45:33
渡邊芳之 @ynabe39

人間の認識などすべて都合よく歪んでいるのに、なぜ悲観的なものは現実的といわれて楽観的なものは幻想といわれるのか、むしろそのことに興味がわく。

2010-10-22 05:49:35
渡邊芳之 @ynabe39

悲観的に考えることもおそらく「そう考えることのメリット」があってそう考えているのだと思う。悲観的に見ることで世界に適応している人がいる。あるいは、楽しく生きるために悲観的な見方を選択している人がいる。

2010-10-22 05:52:06
渡邊芳之 @ynabe39

「人生は最低だ」「世界に愛はない」と呟きながら生きて行くという適応の形態。

2010-10-22 05:57:47
渡邊芳之 @ynabe39

うつの人がうつになることによって適応しているという「事実」と、それを「甘え」ととらえるかどうかはまったく別の話。

2010-10-22 06:03:43
渡邊芳之 @ynabe39

気がつけば「悲観的な見方も適応の一形態」という「真実」を語ってしまった自分がいちばん「人に厳しい人」になっているという。

2010-10-22 06:05:21
渡邊芳之 @ynabe39

「うつ」という言葉がでてくることですべての構造がわかってしまった。この話はもうやめる。

2010-10-22 06:06:36
渡邊芳之 @ynabe39

さて起きるか。今日は思いがけず午前中が休みになった。とてもうれしい。それでも子どもを学校に行かせねばならない。

2010-10-22 06:11:08
渡邊芳之 @ynabe39

楽観的な私が生きている世界と、悲観的なあなたが生きている世界は、おそらく同じ世界。でもあなたは私に「あなたが生きているのは自分とは違う世界だ」という。

2010-10-22 06:14:20
渡邊芳之 @ynabe39

世界はそんなにいくつもあるのか。まああるのかもしれない。

2010-10-22 06:15:47
渡邊芳之 @ynabe39

死にたいと思うのは生きるためだ。それで本当に死んじゃうのはある種の錯誤なのかもしれない。

2010-10-22 06:18:59
渡邊芳之 @ynabe39

溺れる子どもを助けようと飛び込んで自分が溺れるのは、その意図の尊さは尊さとしても、明らかな失敗であるのと同様に。

2010-10-22 06:24:15
渡邊芳之 @ynabe39

問題は、そのことが個別の認識の妥当性を必ずしも保証はしないことです。進化のためには比較的大きい分散が必要だということもそこに関わるでしょうね。RT @bornekiller

2010-10-22 07:52:45
渡邊芳之 @ynabe39

象の例でも、その行動は群としては(あるいは遺伝子としては)正解ですが個体にとってはそうではない。だとすれば個々の人間の苦悩も群の一員としての自分と個人としての自分の間にあるのかな。

2010-10-22 07:55:10
渡邊芳之 @ynabe39

なにか「個人の楽観的なステートメント」に対しても「楽観性を強制されている」と感じやすい感性が存在するように思います。

2010-10-22 08:22:24
渡邊芳之 @ynabe39

なるほど、誰かが個人の問題として述べたことを社会(あるいは平均)の問題ととらえたり、社会の問題として述べたことを個人の問題ととらえたりするところにも誤解の原因があるかもしれないですね。

2010-10-22 08:26:12
渡邊芳之 @ynabe39

一般論に対して個別の例外で反論するみたいなこともそれですね。

2010-10-22 08:27:10
渡邊芳之 @ynabe39

さっきの象の例で、死んだ象が「群のために自己犠牲する」みたいなことを「意図した」必要はないし、多分していない。

2010-10-22 08:42:54
渡邊芳之 @ynabe39

ただ人間だけがそれを認識し、意図的に「自分を捨てて群に奉仕しよう」とします。それは美徳でもあるけれども苦悩の源泉でもあるでしょうね。

2010-10-22 08:43:05
渡邊芳之 @ynabe39

自然科学が対象にできるような問題以外で「認識の外側にある唯物論的な事実」があるとは思いにくいです。多くの場合「事実」とは認識されたもの自体です。

2010-10-22 08:46:04
渡邊芳之 @ynabe39

他の個体のために犠牲になる個体がいる、という現象は人間以外にも、昆虫でも見られます。そのこと自体が、そういう行動が「なにかの精神や意識、あるいは文化の産物ではない」ことの証明です。

2010-10-22 08:51:10
渡邊芳之 @ynabe39

私が言いたかったのは、物事を楽観的に考えるのも悲観的に考えるのも、それぞれその人ならではの適応形態であるという意味で「同じような歪み」である、妥当性の差などない、ということだけです。

2010-10-22 09:08:11