帯広畜産大学のとある教授は語る;「現実的」な認識とはどんな認識のことか? 「うつ病」という語をキーワードとして
- Eric_Ridel
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人間の認識などすべて都合よく歪んでいるのに、なぜ悲観的なものは現実的といわれて楽観的なものは幻想といわれるのか、むしろそのことに興味がわく。
2010-10-22 05:49:35悲観的に考えることもおそらく「そう考えることのメリット」があってそう考えているのだと思う。悲観的に見ることで世界に適応している人がいる。あるいは、楽しく生きるために悲観的な見方を選択している人がいる。
2010-10-22 05:52:06楽観的な私が生きている世界と、悲観的なあなたが生きている世界は、おそらく同じ世界。でもあなたは私に「あなたが生きているのは自分とは違う世界だ」という。
2010-10-22 06:14:20問題は、そのことが個別の認識の妥当性を必ずしも保証はしないことです。進化のためには比較的大きい分散が必要だということもそこに関わるでしょうね。RT @bornekiller
2010-10-22 07:52:45象の例でも、その行動は群としては(あるいは遺伝子としては)正解ですが個体にとってはそうではない。だとすれば個々の人間の苦悩も群の一員としての自分と個人としての自分の間にあるのかな。
2010-10-22 07:55:10なるほど、誰かが個人の問題として述べたことを社会(あるいは平均)の問題ととらえたり、社会の問題として述べたことを個人の問題ととらえたりするところにも誤解の原因があるかもしれないですね。
2010-10-22 08:26:12ただ人間だけがそれを認識し、意図的に「自分を捨てて群に奉仕しよう」とします。それは美徳でもあるけれども苦悩の源泉でもあるでしょうね。
2010-10-22 08:43:05自然科学が対象にできるような問題以外で「認識の外側にある唯物論的な事実」があるとは思いにくいです。多くの場合「事実」とは認識されたもの自体です。
2010-10-22 08:46:04他の個体のために犠牲になる個体がいる、という現象は人間以外にも、昆虫でも見られます。そのこと自体が、そういう行動が「なにかの精神や意識、あるいは文化の産物ではない」ことの証明です。
2010-10-22 08:51:10私が言いたかったのは、物事を楽観的に考えるのも悲観的に考えるのも、それぞれその人ならではの適応形態であるという意味で「同じような歪み」である、妥当性の差などない、ということだけです。
2010-10-22 09:08:11