20140119 #ETV 戦後史証言プロジェクト 日本人は何をめざしてきたのか 第7回「下北半島 浜は核燃に揺れた」

かつて青森県下北半島は貧困のどん底に喘いでいた。辛酸を嘗めた戦後開拓。冷害。希望を託したビート栽培も自由化で頓挫した。沿岸漁業も規模が零細で、中学生が夜はイカ漁に出るしかない状態だった。60年代の「むつ製鉄」、70年代の「むつ小川原開発」と工場誘致も相次いで失敗。1960年代半ばの高校進学率は20%で、若者たちの多くは集団就職で村を離れていった。 そうした暮らしが変わり始めたのは、1980年代の核燃料サイクル基地の六ヶ所村への誘致だった。村を二分した激しい対立が繰り返されたが、結果として、原子力マネーは村を変えた。 いま六ヶ所村は全国でも数少ない地方交付税の未交付団体。若者たちは、希望すれば地元で働くことができるようになった。後に続けと、東通村は原発、むつ市は使用済み核燃料の中間貯蔵施設、大間町はフルMOX原発建設へと舵をとった。下北半島はいまや有数の原子力産業集積地になったのである。 続きを読む
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ほんのこ @shbttsy74

#etv 第7回「下北半島 浜は核燃に揺れた」きょうは続けて重いものが…。 → 放送予定|NHK 戦後史証言プロジェクト : http://t.co/YxmrysTSd1

2014-01-18 22:44:01
ほんのこ @shbttsy74

#etv 青森県下北半島。そこに暮らしてきた人々を一人芝居で演じる松橋勇蔵さん。むつ市浜関根出身。網元の家に8人兄弟の5男として生まれた。「はっきり言って、むつ問題がくるまでは、浜関根は人間関係も豊かな、やさしい人々の集まりだったんですね」原子力船むつ。昭和44年進水。

2014-01-18 23:03:13
ほんのこ @shbttsy74

#etv 母港となったむつ市大湊では、漁民の激しい反発にさらされる。5日目に放射線漏れをおこし、日本中から入国拒否、さまよえる船となった。そのむつを受け入れるよう求められたのが浜関根だった。下北半島の付け根、六ケ所村。昭和59年、核燃料サイクル施設の話が持ち上がる。

2014-01-18 23:04:41
ほんのこ @shbttsy74

#etv 親潮と黒潮がぶつかりあう好漁場。多くの人が漁業で暮らしをたててきた。人口3000の泊。イカ漁の方法を教えてくれた高梨友次郎さん。「紙を敷いたくらいにイカが浮かんでいた」昭和40年の泊を記録したNHKの映像。浜から船を出すのは、家族総出で1時間の仕事。

2014-01-18 23:09:34
ほんのこ @shbttsy74

#etv 高梨さん、昭和39年に船を新造。息子の節男さんと漁に出ていた。男の子は中学生になると夜のイカ漁に出ていた。そうでなければ生活が成り立たなかった。いま高梨さんの船は、自動イカ釣り機を備えた船になっている。秀才だった節男さん、高校には進学しようと思わなかった。

2014-01-18 23:11:29
ほんのこ @shbttsy74

#etv 漁師を続けながら、独学で法律やマルクス主義を学んだ節男さん。「ご飯が出てくるか出てこないかの問題。そんなシビアな時代だったからね。オレには時間もないし、明日食うコメあるほうがずーっと有意義だったね」

2014-01-18 23:12:44
ほんのこ @shbttsy74

#etv 昭和39年(1964)東京オリンピック。高度経済成長期。その恩恵が下北半島の人々には及ばない。建設会社社長の岡山さん、当時は土地の開墾に追われていた。国営パイロットファーム開拓事業。下北半島に畜産を導入しようというもの。「牛だけではメシ食えねえのさ」

2014-01-18 23:14:41
ほんのこ @shbttsy74

#etv 岡山さん「修学旅行だけ行かせてもらったんだけど、着替えのシャツがない。洗ってたたいて干して、次の日も着る」昭和44年(1969)経団連首脳が下北半島を視察。一大工業基地を建設することを決めた。「むつ小川原開発計画」石油コンビナートや鉄鋼など。

2014-01-18 23:16:31
ほんのこ @shbttsy74

#etv 10万人以上が働くとされた計画。泊で新聞販売店を経営する松下さん、中学校の授業で計画を聞かされた。「雇用の場もあるだろうと。同級生が140ちょっといるけど、高校行ったのが12〜3人かな。あとは漁業か就職。集団就職。青森県からは全部一緒に夜汽車で行った」

2014-01-18 23:17:54
ほんのこ @shbttsy74

#etv 松下さん、愛知県の自動車会社に就職。「テレビ新聞で、六ケ所の開発を聞いてた。雇用の場ができるのが、一番注目したところ。出稼ぎしなくていいし、家族みんなで暮らせるから。盆と正月しか家族揃わないから。通年で家族で生活できる、雇用があればそれができる」

2014-01-18 23:19:05
ほんのこ @shbttsy74

#etv しかし、開発のためには、そこに暮らしてきた人たちを立ち退かせる必要がある。反対運動の中核が、当時の寺下力三郎村長。開発阻止の考えを貫いてきた。しかし東京の不動産業者が次々と乗り込み、村には銀行が進出、融資を受けて家を新築する人が増えた。

2014-01-18 23:21:15
ほんのこ @shbttsy74

#etv 岡山さん「土地が異常に上がった。坪3000円で売り始めた。お金がみんなあるから、競争で家建てたのかな」昭和48年(1973)六ケ所村村長選挙。開発賛成派で前村議会議長の古川伊勢松候補が、現職・寺下村長に挑む。結果、79票差で古川氏当選。

2014-01-18 23:23:26
ほんのこ @shbttsy74

#etv 当時の日本は、オイルショックの影響を受けており、鉄鋼などで下北半島に進出しようという企業は現れなかった。高橋徳市さん、進出してくる企業に就職できると聞かされていたが。平成17年、NHKが取材に来ると、高橋さんの自宅はなくなっていた。

2014-01-18 23:25:07
ほんのこ @shbttsy74

#etv 高橋さん「働く場所がないでしょ。あるが?ないでしょ。今現在でも」六ケ所村に巨大開発話が持ち上がった頃、むつ市では工場誘致に連続して失敗していた。そこに「むつ」が、港で核燃料を積み込み、出港する日を待っていた。

2014-01-18 23:26:31
ほんのこ @shbttsy74

#etv むつ市の隣、東通村の伊勢田賢一さん。「あそこまでデモ隊がいっぱい来てましたからね。出港騒ぎの時は陸奥湾のホタテ漁船がわーっと取り巻いて、あんな光景は初めてですね。船のホーサー、もやいを取り外したりする仕事をしていた。出れるのか出れないのか判断つかない」

2014-01-18 23:28:05
ほんのこ @shbttsy74

#etv 昭和49年8月26日午前0時45分、包囲網を振りきって、むつが出港。伊勢田さん「風が吹いて、漁船がむつの周りにおれなくなった。そのスキに出たんですよ」その6日後、むつ放射線漏れ事故。むつ市、むつの帰還を拒否。日本中が受け入れを拒否していた。

2014-01-18 23:29:36
ほんのこ @shbttsy74

#etv 自民党・鈴木善幸総務会長が動き、条件をつけてむつの大湊帰港を受け入れさせた。伊勢田さん「泊まっている船での経験は初めて。実際の原子炉を動かすことはなかった。炉内の水を温めるとかの訓練は1〜2ヶ月に1回していた。8時間の当直の中で2回、炉内とか全部点検しに入る」

2014-01-18 23:31:30
ほんのこ @shbttsy74

#etv 条件だった半年が過ぎても、新しい母港が決まらず、むつ長期停泊。東通村では、原発20基の建設計画が進んでいた。当時21歳の伊勢田賢一さん。父親は「今まではお上には勝たれないっていう」村の将来を原子力に賭けるか否かの議論。

2014-01-18 23:33:07
ほんのこ @shbttsy74

#etv 昭和53年、事故の4年後に佐世保港へ。そのままむつは佐世保にとどまることに。「むつの新たな母港として関根浜が浮上」と、昭和56年の読売新聞。100世帯ほどが暮らしてきた浜辺。零細漁民が多いことから、漁業補償が少なくてすむ。青森県漁連も容認の姿勢を見せていた。

2014-01-18 23:34:53
ほんのこ @shbttsy74

#etv 松橋さん「兄が読売新聞をとっていた。それで、これは何だ、って。むつの母港をむつ市に置きたかったんですね。大湊がダメなら関根浜しかなかった。風も強い、あんなところになぜむつを持ってくるのか」昭和57年、NHKの取材映像に松橋さん兄弟の姿が。

2014-01-18 23:36:18
ほんのこ @shbttsy74

#etv 反対運動の先頭に立ったのが、松橋さんの3番目の兄、幸四郎さん。政府、中川一郎科技庁長官を送り込んで説得。漁港の整備などを提示してむつの受け入れを求める。松橋さん「せっかく大臣が来るんだからデモをしようということで、漁師100人くらいでデモをした」

2014-01-18 23:38:18
ほんのこ @shbttsy74

#etv 松橋さん「大漁旗をむすぶものがないので、角材をもってこようとしたら『それは罪になるぞ』『いいや、やっちゃえ』と。シュプレヒコールもやろうと」大学時代に演劇をしていた松橋さん、関根浜を舞台に、一人芝居「百年語り」を世に問う。

2014-01-18 23:39:39
ほんのこ @shbttsy74

#etv 当初は母港化に反対していた漁連が賛成に回る。むつの母港を建設するためには、漁民が漁業権を放棄することが条件。昭和57年9月6日、政府は漁民の受け入れ決定を待たずに、むつを佐世保港から移動。松橋さん「兄から、なんとかできないかと。土本典昭さんに相談した」

2014-01-18 23:43:09
ほんのこ @shbttsy74

#etv 土本典昭監督『海盗り』。水俣病問題を追っていた土本監督が記録映像を撮り始めた。松橋さん「県が漁師たちを集めて、水産部長・係長が来て宴会をしていると情報が来て、幸四郎と私と弁護士で押しかけたことがある。それが伝わっていたらしく、宴会場には誰もおらずタバコの煙が」

2014-01-18 23:44:52
ほんのこ @shbttsy74

#etv 松橋さん「幸四郎は上にあがって、『おい部長!起きてるんだべさ!』」上が寝室になってる。そしたら何の事はない、みんなネクタイして布団かぶってた」総会開催。県の保証金は総額23億円に膨れ上がっていた。松橋さん兄弟は、総会の無効を主張。

2014-01-18 23:46:24