渡邊芳之先生ynabe39のいじめについてのツイート まとめ

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渡邊芳之 @ynabe39

千の風になって。

「まぐれ利権を守る会」「なにもしない力育成会議」。東京都立向丘高校卒,元心理テスト会社社員,元大学講師、元自称クリスチャン。反日極左右翼差別主義者,自称当事者,腐れインテリ病。【座右の銘】「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」。
北海道帯広市 · twilog.org/ynabe39

渡邊 芳之(わたなべ よしゆき、1962年4月22日 - )は日本の心理学者。帯広畜産大学人間科学研究部門(人文社会・体育学分野)教授。博士(心理学・東京国際大学)。 佐藤達哉、尾見康博との共同研究を中心に心理学論、心理学史、人格心理学や血液型性格分類の批判的検討などの分野に論文・著作を持つ。趣味はレコード蒐集。
http://ja.wikipedia.org/wiki/渡邊芳之

渡邊 芳之 -帯広畜産大学-
http://www.obihiro.ac.jp/ichiran/watanabe_yoshiyuki.html

 

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「そしてその「処罰を下す」のは司法であって,われわれではないのです。」 これが昨日から私が書いている「私的制裁は原則禁止しよう」という問題と「外の社会で犯罪なことは学校でも犯罪としよう」ということです。 by 渡邊芳之 27147 pv 101 33 users 5

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「どんなにその制裁に同意する人が多かろうが制裁に参加する人が多かろうが「法的根拠によらず.. 「ひとりでやるのが私的制裁でみんなでやったら私的制裁ではない」ではないです。国や行政機関が法に基づいて行うのでない制裁はすべて私的制裁。 by 渡邊芳之 9181 pv 61 8 users 5

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「犯罪被害者の側に犯罪の原因となる要素があったかなかったかという話と、そのことによって.. 「犯罪被害に遭わないように気をつける」ということが可能な犯罪は「被害に遭う側にも原因がある」から「気をつける」ということができるんだよね。 by 渡邊芳之 5099 pv 33 1 user 3

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「正義感に高揚した顔の恐ろしさというのが20世紀の歴史。」 ロシア革命の映像にも、ナチのイベントの映像にも、戦争直前の日本にも、1960年の日本にも、カンボジア革命にも、ユーゴ内戦にも、ここ最近のデモにも、われわれが共通して見るのは正義に高揚した美しい顔だよね。 by 渡邊芳之 3690 pv 10 2 users 2

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「いじめられる側に原因があってもいじめちゃダメ,悪い子であってもいじめちゃダメ,というだ.. これはつまり「仇討ちはなぜ禁止されているのか」という話なのだ。 誰かの「罪」を法的手続きによらずに私的に制裁する,ということをまったく禁じてしまったら,それこそ家庭も子育ても学校も成り立たなくなるだろう。しかし近代社会はそうした私的制裁が許される範囲を非常に狭く定めているし,範囲は年々狭くなっている。 ある程度の私的制裁が認められやすい範囲としては親子関係,教師と生徒,ごく親しく規範を共有した小さなコミュニティ(たとえば家族)などがあると思うけれど,そこでも私的制裁が虐待とかハラスメントと呼ばれない範囲は年々どんどん狭くなっている。 by 渡邊芳之 13796 pv 26 2 users 4

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「「他人に迷惑をかけていない」ということだけが「自由の根拠」だとすれば自由のために他人の.. 「自由はすばらしいものだから制限されてはいけない」と考えるから自由の範囲を狭く考えたくなるんで,「自由はすばらしいがそのいっぽうで恐ろしいものだ」「自由の恐ろしい面はそれなりに制御すべきだ」と考えることが大事だと思います。 だから「自由」と呼ぶのをやめて「自分勝手」と呼ぼう,というのが私の意見。それならプラス面マイナス面がちゃんとイメージできる。 by 渡邊芳之 5108 pv 11 1 user 5

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「「差別されるほうに原因があっても差別してはいけない」「いじめられるほうに原因があって.. 「差別される原因」「いじめられる原因」なんて見つけようと思えばなんでも見つかるし,必要に応じて作り上げることだってできる。現にさかんに作り上げられている。 by 渡邊芳之 2913 pv 10 2

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「正当な批判だったら私刑をしてもよい主義者撲滅。」 「いじめられるような原因があるのだからいじめられてもしかたがない」「悪い子なんだからいじめられてもかまわない」というのが「明言されない常識」である限りはいじめはなくならないと思う。 「何の非もない罪もない人が攻撃されるのがだけがいじめで,その人に非や罪がある場合は正当な批判」と言っているうちはいじめはなくならない。 「正当な批判」であっても制裁は法に基づいて公権力が行うべきで私刑はダメ,というのがいちおう近代社会のしきたりだよね。 by 渡邊芳之 32882 pv 204 28 users 23

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「「いじめの定義」がまた増えたぞ。」 ここで「この法律において」と書かれているのが大事で,この定義は「この法律が対象とするもの」を明示するために行われているだけで,この定義にあてはまらないものはいじめでないといっているわけではない。単にそれはこの法律の対象にならないだけ。 しかし現実的にはこうした定義にあてはまらないことが「それはいじめではない」といわれる根拠になることは少なくないと思う。 by 渡邊芳之 3882 pv 15 3

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「私も「いじめかどうかは(最終的には)多数決で決まる」と考えているのでその点には特に異.. 正義だったら人を殺したっていいということも歴史や社会の現状を見ればわかる。 問題はその正義が「ローカル」であることを、その正義を主張する人、それに基づいて人を殺す人が気づいていない、あるいは認めない場合だろう。 by 渡邊芳之 6272 pv 30 1 user 9

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「いじめを外形的な行為だけから定義することはできない,というのはずっと前から言っている.. 「明らかな暴行や脅迫や名誉毀損などはいじめと呼ぶのをやめよう(犯罪として扱おう)」という話と「明らかな暴行や脅迫や名誉毀損でないものはいじめと呼ぶのをやめよう」というのはまったく別の話。犯罪は犯罪として扱っても「犯罪にはならないいじめ」は必ず残る。 「ハラスメント」や「いじめ」は被害者の主観のみによって成立可能だというのが沼崎先生の論文にもあったように2000年ころ以降の基本的な考え方になっていると思います。 by 渡邊芳之 4661 pv 25 2

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「さっきの「学校にも社会と同じルールを」の話で言う「社会のルール」というのは「社会のル.. 「正しいもの」と「正しくないもの」がはっきり分かれる,と思っているから「正しいものを正しいと言わないのはニヒリズムだ」という発想になるんだよね。実際はこれも「程度問題」で「正しい程度」は社会的な関係の中で定まる。 1715 pv 1 1 user 1

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「すごく根本的なところで私は「いじめに反対する人の多くも,悪いやつならいじめてもよいと.. 朝から絡まれてるんじゃなくて、私が絡んでるんです。 「本人は悪くないのに攻撃されるのがいじめ」としてしまうと、「お前が悪い」とみんなに言われてしまえば終わり、となります。「本人が悪くてもいじめはいじめ」。 「落ち度があるからいじめてよい」「こちらが正義だからいじめてよい」というロジック自体を排除しないとダメなんです。本人に落ち度があってもいじめはいじめ、正義のためであってもいじめはいじめ。 by 渡邊芳之 7076 pv 8 2 users

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「「いじめられるほうにも原因がある」ということと「いじめられるほうも悪い」ということは「.. さて,その「いじめといじめでないもの」を分ける「本人が悪いか悪くないか」はいったい誰がどうやって決めるのだろう。 刑罰や法的な制裁が「いじめ」といわれないのは「本人が悪いかどうか」を決める基準や手続き,それに対する制裁の内容や方法が厳格に定められおおむね合意されているからだ。 by 渡邊芳之 ※捉え違いをしている方が多そうなので追記 朝から書いているように「被害者側に原因がある場合もある」ということも含んで「いじめの原因は加害者にも被害者にも,また学校などいじめが生じる環境にもある」と思います。しかしそのことと「被害者側にも責任がある」とか「いじめられるほうも悪い」というのは別。 そもそもいじめについて「加害者側に原因がない」なんてことはあり得ないでしょう。たとえそれが「人間すべてが生まれつき持ってい.. 61987 pv 257 159 users 118

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「自分がやっていることについては誰だって「この程度ではいじめとは言えない」「これは叩き.. 「程度の問題であるだけ」の「程度」は誰がどうやって決めるのか、「叩き過ぎはいけないというだけ」の「叩きすぎかどうか」は誰がどうやって決めるのか、もっといえばそれを「被害者以外の人」が決めることをどう考えるのか 4664 pv 4 1 user

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「いじめ構造は子どもだけで成り立っているわけではない。」 「子どもがいじめられている」と学校に文句を言ったりすると「モンスターペアレント」だと言われる。教師に言われるだけでなく他の親にも言われる。by 渡邊芳之 2685 pv 9

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「通常は「いじめも学校秩序の一部」だからですよね。 」 数日前までいじめられてる時は先生からも「お前が生意気だから」だと言われてまったく助けてもらえなかったのに,いじめる方になって怪我をさせたら「やっぱりとんでもないやつだ」「○○君とお父さんに土下座して謝れ」ということになるわけです。by 渡邊芳之 5598 pv 21 2 users

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「まず自分の子どもに「逃げずに死ぬより逃げて生きるほうがいい」「逃げろ逃げろ,どんどん.. 「逃げたら社会的に終わりだ」という人がたくさんいるということが「逃げた人を社会的に終わりにしている」んじゃないのか。「そんなことは社会で受け入れられない」という人こそが「それを受け入れない社会そのもの」なんだよね。by 渡邊芳之 4190 pv 8

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「正しいことを貫くよりも生きることのほうが優先。」 「正しいことをして死ぬ」のと「間違っていても生き残る」のでは後者のほうがいい、というのが私の言っていること。 「正しいものは救われ悪いものは報いを受けるべき」という「世界観」と「いまある個別の問題への対処や解決」を切り離して考えないといけない時があります。「自分は悪くないのだから逃げも隠れもする必要はない」といって死んでしまったらなんの意味もない。 たとえば無差別殺人みたいなものでむこうから刃物を持った男がこっちに走ってくるのに「自分は悪くないから逃げる必要はない」と思うでしょうか。「それとは話が違う」としたら,どこがどう違うのでしょうか。by 渡邊芳之 4871 pv 10 3 users 1

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「いじめは「指導」 道徳は「同意され正当化されたいじめ」ですからね。」 「心のノート」(小中学校の道徳の副読本)を見れば「どういう人をいじめたらよいのか」のヒントがいっぱい書かれていますよ。by 渡邊芳之 60056 pv 674 264 users 55

まとめ 渡邊芳之先生@ynabe39の「内藤朝雄@naitoasaoのいじめ分析が衝撃的であると同時に反感も買うのは,社会文.. けっきょく内藤さんの本を読んで「まさにまさに」と素直に思えるのは私のようにいじめられた子どもが育って学者になったような種類の人間だけなのかもしれない。by 渡邊芳之 25707 pv 149 61 users 11

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39による「差別を受けない努力をしてから言え,というのはすごい言葉」とのツイート でも「自分はなぜその努力をしなくていいのか」と考え始めればいろいろなことがわかると思う。 8079 pv 11 8

まとめ 渡邊芳之先生ynabe39の「自分の子どもには辛くなったら学校はやめてよいと言っている。そのことにどんな弊害があると.. 自分は学ぶことで幸福になった、自分は学ぶことで騙されなくなった、でも他の人は違うかもしれない。そういうイマジネーションを生み出すのも知識の力です。by 渡邊芳之 9346 pv 73 15 users 3