大内義弘の挙兵と今川了俊アレコレ談義
- japonikamai
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例えば応永の乱の時、満兼の挙兵は換言で留められるわけなんだけど、現実的に鎌倉の軍勢が挙兵したとして、あの時期の上杉は幕府が繋げた鎌倉公方の首輪で、道中には甲斐武田・駿河今川・三河尾張に斯波その他、のみならず、鎌倉公方の周囲を京都御扶持衆が囲んでいるわけで
2014-01-27 14:15:57年表見ればわかる通り大塔宮が死ぬより前に既に直冬は生まれているので、太平記の中で大塔宮が直義の妻の腹に宿って生まれた子どもは如意丸と見るのが自然なのだが
2014-01-27 15:29:44太平記の著者はその事実を織り込んだ上で、後醍醐帝の大塔宮と、尊氏の直冬を見立て、更に直義の因果応報譚に繋げたんじゃないかなあ。物語の上で、あそこで生まれたのは直冬なのではなかろうか。
2014-01-27 15:32:08更に直冬はやがて南朝にくだり、南朝方の武将として活躍するわけだが、これはやはり太平記の著者が見たかったIFの大塔宮の姿とも取れる
2014-01-27 15:33:33@mknhrk 動乱の東国史でも「義弘は堺で挙兵して鎌倉公方の上洛を待つ戦略だった」って書いてたんですけど、牧野さんの言うように上洛待ち現実的じゃないですよね。駿河には了俊いるとは言え影響力も限られるし。しかしじゃあなんで義弘は堺で挙兵きたんだろっつう疑問が。
2014-01-27 15:40:29直義が殺した大塔宮が、やがて直義の妻の腹に宿り、兄弟の亀裂を深め、南朝に下り戦うというストーリーが、そこに想定されている気がする。直冬は全く救われない話だが。
2014-01-27 15:41:23@dokudamiY 了俊の影響力なんてあの界隈ではもう完全に期待できないものなんですよね。既に駿河の今川の実権は完全に甥に移っていて了俊は過去の人間ですし。
2014-01-27 15:44:57@dokudamiY 堺で挙兵したのは、瀬戸内から反細川系を糾合して畿内を攻める他にルートがなかったんだろうなあと想定してます。山名・赤松抜けない
2014-01-27 15:45:11基本的に山名と赤松が大内と手を結ぶことは、断言してもいいが無いですし、かと言って細川も絶対無いとなると、大内が畿内に侵入できるルートは堺しかないんだよなあ。
2014-01-27 15:49:39そしてこの時期の貞世の影響力など、本当にたかがしれているのだ。鎌倉で文化人としてそれなりの待遇は得ていたとは思うが、政治的には煙たがられていたんじゃなかろうかー。
2014-01-27 15:52:19そしてむしろ大内義弘が何か期待していたとしたら、西国なんだろうな。お前、よく期待する気になるなとはちょっと思うけど。俺が言えば動くんじゃないかくらい思っていたかも
2014-01-27 15:55:23@mknhrk 九州南部の切り崩しで失敗して島津に見限られて更迭された、あとだと影響力は低くなってそうですね。
2014-01-27 15:56:17@mknhrk 政治的には死に体でしたからねえ。あとたとえ駿河を抜けても土岐はまあ康行の残党が蜂起するとして、そのあと近江も控えてますし、どうするつもりなのか。公方の動きを見ると牽制以上の効果は期待されてなかったように思えます。
2014-01-27 15:58:20@sadasaku 義満に呼び出されて万座の席で糾弾された時点で、政治家生命絶たれてるんですよね。既に駿河の守護権持ってる甥も、すっぱり了俊から距離取ってますし
2014-01-27 15:58:28@dokudamiY 挙兵が各地で起こった知らせがくれば、幕府が動揺するってのは確かなんで、まああちこち働きかけておくのは悪いことではないですが、やっぱり自棄には見えますね。本拠地の方だって北九州の連中やら、動かないわけがないわけで
2014-01-27 16:01:35明徳の乱はまだほんとゼロに近いとは言えなにかしらの勝利への希望があったとは思うんだが、義弘の場合はまったく何もないよな…絶望的に過ぎる…。
2014-01-27 16:02:49@dokudamiY そもそもその了俊の権威自体が義満がいることで保証されているので…… なんか涙ぐましいまでに独自の権威作りに必死の了俊見てると切なくなりますが
2014-01-27 16:03:35@mknhrk うーむ…しかし当の呼応するはずだった勢力が、絶望的な状況の連中のぞいて全員様子見に徹したあたり、誰もこの戦いに勝てるとは思ってなかったんじゃないかと思うと陰鬱な気分になりますね…。
2014-01-27 16:05:50