江戸城と江戸湊

江戸城を築城したといわれる太田道灌殿の解説。
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道灌bot@自動ツイートは休止 @doukan_bot
と、いうことで、突然ですが、江戸城と江戸湊について、暫く呟こうかなと存じます。連投となります故、ご迷惑なかたはミュート・リムーブ・ブロックをお願いいたします
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まず我が主が我々室町期より未来、『天下普請』で有名な江戸開発を知りたいと、徳川四天王の榊原康政様にお教えいただいた、ちくま学術文庫——江戸はこうして造られた、を元にお話しましょう。天下普請の前に私と江戸湊についても詳しく載っています http://t.co/tmWz6FZimY
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【時代解説】一般的には道灌さんは『室町時代の終わり、戦国前夜の』『関東(坂東)の』『将軍の家臣の家臣(陪臣)』に当たる武将です。目立っていますが、あくまで陪臣。関東の室町幕府の権威は道灌さんの死をきっかけに失墜し、その隙を衝いた北条早雲によって関東の戦国時代が始まったと言えます
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1980年、30年ほど前のご本で、私の経歴や北条早雲殿の経歴など、多少の説の古さはございますが、寺社領などについての記載は今でも褪せないと言って差し支えないでしょうと存じます。そう、まずは、東国の津々浦々、主要な湊は鎌倉幕府によって、中立性の高い寺社領とされていたと始まります。
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中世と言っても鎌倉期は、鎌倉幕府の玄関とも言える、現在の八景島シーパラダイスの辺り、六浦湊が最も大切かつ繁栄した湊でしたが、我々の室町時代、享徳の乱で、鎌倉公方だった足利成氏殿が古河に移られると、やがて六浦湊も衰退してしまいます。六浦湊の属する横浜市歴博で詳しいお話が聴けますよ
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衰退した六浦湊に変わり、発展してきたのは、神奈川湊、品川湊、そして江戸湊など、東京湾…当時の江戸内海の奥の方の湊でした。江戸湊は当時の古利根川の河口、神奈川湊は鶴見川河口となります。鎌倉幕府や室町期の鎌倉府が衰退しても、依然これらの湊は中立性の高い寺社領でした
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特に神奈川湊、江戸湊は、JR北鎌倉駅にほぼ直結の古刹、鎌倉五山の一つ、円覚寺の所領となります。鎌倉五山は室町期のお寺ですが、湊は有力寺社領、という伝統が続いていたのでしょうね。
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実は鎌倉市史・資料編の第二巻はまるごと円覚寺文書が収められ、こうした湊へ出された書状などもよく見られます。神奈川湊については、長尾景春から家宰職を取り上げたとも言われる、叔父の総社長尾忠景殿が、円覚寺との深い繋がりから抑えていた、とだけ申しましょう。さて、江戸湊です。
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……ふむ、ついログと、タグを使えばいいのに、と主からDMが飛んできましたな。まとめをする気力がなくとも、まとめられるのだとか。今の絡繰は便利ですね
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とはいえ、始めてしまったので諦めましょう(笑)
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気を取り直して、江戸湊と円覚寺からお話しましょうか。再びこちらの本に戻りますが、実は、この『江戸はこうして造られた』には、同じ鈴木理生先生の前著『江戸の都市計画』がございます。先生も驚いてましたが、短期間に同様の企画が有ったとのこと http://t.co/MjPTYnby8v
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この、江戸の都市計画、今は古本での入手となりますが、両方合わせ読みしますと、なかなかに興味深く、私の江戸城築城伝説も、この前著に、より詳しいお話が載っておりました
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私の自動ツイート、江戸氏はなぜ、江戸を去ったのか―― http://t.co/1jXZK0uSJe 江戸氏は実は私の江戸城築城時には既に江戸にいらっしゃいませんでした。この話では遅くとも結城合戦の頃にはいなくなっている、としていますが、もっとさかのぼりそうですね。
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江戸の都市計画、江戸はこの造られた、の二冊によると、江戸湊で莫大な利権を得ていた江戸重長ですが、実は房総半島から西を目指して石橋山の捲土重来せんと迫っていた源頼朝様の進路を平家方として阻んでいたのですね。その後和睦して頼朝様に寝返りますが、……
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やはり鎌倉幕府としては、仮想敵となる江戸氏にいつまでも豊かな江戸湊を預けるわけにいかず、江戸氏は江戸から徐々に遠ざけられていった、と有ります。後に江戸は江戸氏が頼朝様に寝返る取りなしをした葛西氏に与えられますが、室町期には円覚寺の所領となっていたことが、円覚寺文書から解ります
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そこで、私の江戸城築城に話がすすみます。関八州古戦録には、コノシロ、という魚が江戸の辺りで舟に飛び込んできたから『この城』で築城した、あるいは九城とかいて、江戸や河越、岩付など九つの城を造った、とあります。
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コノシロ、は江戸前寿司で人気のシンコ、コハダが成長したお魚ですね。逸話とは言え、江戸湊にゆかりの深い魚なのでしょう
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さて、当時の江戸湊ですが、実は日比谷入江、というものがありました。今の皇居の前から、東京駅の手前くらいまでの幅でしょうか。これが東海道線に沿って新橋の辺りで東京湾に繋がりました。
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入江ですから、狭い位置に対岸がございます。皇居の辺りを旧江戸城としまして、東京駅の向こう側、鍛治橋の辺りを江戸前島、という半島がありました。この日比谷入江の埋め立てこそ、後の徳川四天王の榊原康政様らの天下普請の一つ、となります。さて、この江戸前島は円覚寺の江戸湊での拠点でした
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この『江戸の都市計画』では、もう一つ、後世の方ではございますが、荻生徂徠殿の語った私の江戸城築城伝説がございます。私も初めて知りました。
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『築城の適地を探していた道灌が、ある夜、大きな法師が舞い踊っている夢をみて、これを瑞兆として江戸に縄張りを始めた』……大きなお坊さん……
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著者の鈴木理生先生は、荻生徂徠は道灌より未来の学者ではあるが、彼の実証主義と、江戸時代の地誌の表現から、あながち外れたものでもない、とされています。つまり、円覚寺勢力からの協力をこの逸話は指しているのですね。
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今となっては恥ずかしいこの登録ツイートの手描き図にもあるように、江戸湊は当時の戦乱の国境ラインでもありました RT 【史蹟まさか遷都400年前、「都」を想定して作ったものではありません。此処は享徳の乱の防衛ライン最前線だったからです http://t.co/SmT3FQgHQW
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道灌bot@自動ツイートは休止 @doukan_bot
先に申したように、円覚寺は明確に総社長尾忠景、古河公方に味方した景春の敵ですからね。私を招き入れて守りを固めようという意図もあったのでしょう。今でも東京駅から少し電車に乗りますと、両国に至りますね。両国とは、武蔵と下総の両国、という意味です。そして下総は千葉氏、古河公方勢ですね。
道灌bot@自動ツイートは休止 @doukan_bot
と、いうわけで、主と一緒に、未来の江戸の天下普請を学ぶはずが、思いもかけず、自分自身の振り返りともなったのでした。最後に、良き学びの機会をお与えくださった榊原康政様に @sakaki_koheita 多大なる感謝を。有難うございました。
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