ピアノの練習曲は先生だ+ピアノも先生だ
- suck_a_sage
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「練習曲を弾いているとその練習曲が要求しているテクニックが付く」ということをふと考え直す.示されるのは楽譜であり,それは音をどう弾くかという事.しかし私達が直接操るのは自分の身体だ.身体の動かし方を記述するのではなく,身体を動かした結果が示されている.動かし方は自分で考える.
2014-02-05 17:13:53練習曲は,身体の動きを制限するように書くのではないか.「ある奏法をしない限りこの音型は弾けないぜ」という形にしておく.すると色々試しているうちに,いつかそのやり方にたどり着く.もちろん,作曲者の想定とは違う解(別解)もしばしば発生してしまうとは思うが.
2014-02-05 17:17:12この前の武井壮の話でもあったけど,「練習」というのは,思い描いている形(身体の動き)に近づくように精度を上げていく事の他に(前に),適切な形を思い描く段階がある.何度も弾いてるうちに自然に後者が出来る事もあるし,出来ない事もある.自然にできないなら,意識的にやるしかない.
2014-02-05 17:41:23ピアノの先生は,他人の身体の動きの精度を上げる事はできない.動きの理想形を教える事が出来るだけだ.反対の視点から見れば,自分の身体の動きを上げる事は自分にしかできないが,動きの理想形は人に教わる事が出来る.
2014-02-05 17:49:56ある曲を弾いてみて「この曲のこの感じ(雰囲気とかノリとか)って,こういう風な音型で出してたのか」と感じる時,それは作曲者がピアノ演奏…ピアノ音楽というものを教えてくれる先生なのではないか.そこに制約があればある程,そう思うのではないか.
2014-02-05 18:01:50ピアノは「雑な楽器」という文章を高校生の時に読んでから、その印象から離れられずにいる。 曰く、「音程が固定されている」。 曰く、「ピアノの詩人という表現はピアノの本質が詩的でないということに他ならない」 一面では正しそうなんだが、だから、ピアノは「作音楽器である」べきなんだろう
2014-02-06 00:50:54たとえば「音程がいいピアニスト」という表現がある。これは「どうせ平均律でしか演奏できない(昔はミーントーンとかヴェルクマイスターとか色々あったけど)ピアノという楽器を純正調のごとく聴かせられる」ということになるらしい。
2014-02-06 00:51:52音程の問題に限らず音質の問題もある。1920年代に作られたベヒシュタインを弾かせていただいたとき、正しいタッチで弾かないと音質がカタマリもしない、その峻厳な楽器の性能に惚れた覚えがある。ヤマハとかだと弾く音は「常に固まっている」ので、この感覚は知りようもない。
2014-02-06 00:53:42下手くそでも上手に聴かせられる、というのは、機械的には進歩であろう。それが演奏者のセンスを向上させるかというと、これは演奏者の受け取り方の問題になるので何とも言えない。
2014-02-06 00:56:00だからスタインウェイは偉大だし、ヤマハもカワイも偉大だけど、それらでどれほど表現の幅が広くできようともベーゼンドルファーで人の心を溶かす演奏が出来る、というのとは別の問題になってしまう。もちろん前者も後者も、説得力ある演奏のためには死ぬほど大事
2014-02-06 00:58:25ピアノが上手くなれるかどうかって、つねに弾いてる楽器に「下手くそでごめんなさい、あなたのキャパシティを引き出せなくてごめんなさい」って反省できるかどうかだと思うんですよ。
2014-02-06 01:00:00その楽器がハイクラスなものとされているかいないかは大した問題ではない。問題は、その楽器に対する自分が高度な反省をできてるかどうかに帰着する。だから、モノコードのバンジョーだろうがインペリアルグランドだろうが、演奏者が耳と妄想力について反省できるかどうかが本質的な課題だと思う。
2014-02-06 01:02:52ピアノ練習曲は先生だ,という話のまとめ.「ピアノの練習曲は先生だ」 http://t.co/l1eE3NVSrJ
2014-02-05 19:31:38ある曲にとって最も合理的な形、また、あるピアノにとってもっとも合理的な形、というのは(それを追求したい人にとっては)たしかに師になり得るんだろう。問題は触れる機会と触れるテクニックと触れるための視野があるとは必ずしも保障できない点。>RT
2014-02-06 01:16:23「クラヴィコードとチェンバロの双方を練習せよ。チェンバロの名手はクラヴィコードを上手に弾けるとは限らないが、クラヴィコードの名手ならば必ずチェンバロを上手く弾く」ということをC.P.E.バッハが言っている。
2014-02-06 01:17:54現代日本風にいうなら「あらゆる輸入ピアノと国産メーカーピアノのいずれにもふれよ(以下略」ということになるだろうか。チェンバロに対するクラヴィコードのごとく、強音を出すという性能についてはともかく、それ以外の表現の幅が圧倒的に広いピアノが輸入ものには多い。
2014-02-06 01:19:41逆説だが標準化されている環境で、そうでないセンスにたどりつけるのもまた、大変貴重なことではある。僕はまちがいなく「知らなければわからなかった」的な「バカのひとつ覚えタイプ」なのだが、どういうわけか自己反省能力がデフォルトで高い人たちはそうでもないらしい。
2014-02-06 01:23:24