島田貞一先生の「武芸」からの抜粋

みんみんぜみ(‏@inuchochin)さんによる、島田貞一先生の「武芸」からの抜粋。
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みんみんぜみ @inuchochin

島田貞一先生の「武芸」を読んで色々とショック受けてます。色々と今まで読んできた資料や史料から私が予想していたような事を、根拠資料も書きつつ、はっきり書いてます。なんでこれが古武道界隈で常識になってないんだ!?昭和34年に書かれた事が今の武道界隈の常識よりずっと先進的なんだが

2014-02-08 23:03:00
みんみんぜみ @inuchochin

ちなみに古武道界隈は武道史界隈じゃなくて古武道稽古者や剣道杖居合界隈ということで。島田貞一先生は貫流師範の佐藤道場や佐分利流の先先代、宝蔵院流を復活させた方々のところに昭和10年代から取材したり習ったりされてます。杖や体術は上野貴師範に師事したりもされてます。

2014-02-08 23:16:09
みんみんぜみ @inuchochin

島田貞一先生は歴史学者で戦前は兵学の研究、昭和10年代からライフワーク的に槍と槍術の研究を始めて、多数の伝書を収集、当時まだいた槍術師範への取材をまとめた「槍と槍術」という連載を月刊武道でされていました。これは武道史に興味あるなら必読だと思うのに本になってない(・_・;

2014-02-08 23:20:10
みんみんぜみ @inuchochin

ちなみに学校を卒業した昭和11年に槍術研究を思い立ち、すぐに名古屋の貫流道場を訪ねたそうです。当時の師範は佐藤政五郎、小野派一刀流と貫流師範で元治元年生まれの73歳だったとか。佐藤師範は後に尾張貫流を伝える柳生新陰流神戸金七師範の師匠です。

2014-02-08 23:25:38
みんみんぜみ @inuchochin

本来、貫流には薙刀合、槍合、太刀合、小太刀合等多数の形があったようですが、昭和18年に佐藤政五郎師範に、長男の政治師範が昭和21年に亡くなり、政治師範の長男も20歳で空襲で亡くなり、その際に道場と資料も燃えて、残念ながら貫流全伝は失われてしまったとか。

2014-02-08 23:34:24
みんみんぜみ @inuchochin

島田貞一先生によれば、「貫流は新陰流の高手、神戸金七先生が学び、形は槍合5本のみだか、管やりの技術を今に伝える」とあります。

2014-02-08 23:36:23
神無月久音 @k_hisane

島田先生の本は気になってるのですが、全然置いてないし売ってないのがなんとも。むう。 @inuchochin 島田貞一先生の「武芸」を読んで色々とショック受けてます。色々と今まで読んできた資料や史料から私が予想していたような事を、根拠資料も書きつつ、はっきり書いてます。

2014-02-08 23:27:29
みんみんぜみ @inuchochin

@k_hisane 「武芸」は講座日本風俗史の9と11に掲載されてる記事です。講座日本風俗史は他の記事もかなり面白いですよ。

2014-02-08 23:38:44
神無月久音 @k_hisane

おお、ありがとうございます。「武芸」という単行本ではなかったんで砂。これはしたり。 @inuchochin 「武芸」は講座日本風俗史の9と11に掲載されてる記事です。講座日本風俗史は他の記事もかなり面白いですよ。

2014-02-08 23:59:54
みんみんぜみ @inuchochin

島田貞一先生は戦後は千葉県の船橋市立図書館の館長を長くされていたみたいで、島田先生が集めはじめた船橋市立図書館の浮世絵のコレクションというのもあるみたい。上野貴師範も船橋で、地元の縁での入門?。島田先生の伝書コレクションは東大に寄贈される予定だったらしいけど、どこにあるんだろ

2014-02-08 23:43:49
みんみんぜみ @inuchochin

島田先生の「武芸」から印象に残った(というか自分が考えていた事に近い)ことを抜粋してみる。

2014-02-09 00:07:50
みんみんぜみ @inuchochin

島田貞一先生の「武芸」より姿態の変化について。中世の武芸や戦闘の姿を絵画史料によって見ると種類を問わず一種の特色があると云います。それは、 ・足を丁字に踏み半身になる(今風にいえば撞木の足?) ・両膝或いは前後何れかの片膝を屈して重心を下げ上体を前懸りとする

2014-02-09 00:15:47
みんみんぜみ @inuchochin

続き。 ・刀(太刀)なら手元を低く下げ、切先を前上方に高く差し上げ楯にとって構える。 ・右片手で太刀を右肩の前にそばめ、左手を前に差し出して走り掛かる ・弓なら弦を右肩先や右胸元に引き絞る

2014-02-09 00:16:39
みんみんぜみ @inuchochin

島田先生が挙げられている中世武芸の特徴は、柳生宗厳(石舟斎)の『身懸五箇の大事』に良く似てる。島田先生もそれが念頭にあったかもしれないけど、南北朝や鎌倉時代の絵巻や戦国時代の武芸伝書と江戸時代の絵図や絵伝書を比較して得た推論らしい。

2014-02-09 00:20:01
みんみんぜみ @inuchochin

で、続き。中世の武芸に対して、近世の武芸はどういう傾向があるかというと、 ・上体は直立する構が多くなる。割膝で身を沈めても上体は直立する。 ・一歩進むと割膝を嫌いスックと立った自然の姿を好む流儀も多い ・太刀を持った拳の位置は一般的に高くなる傾向がある。 としている。

2014-02-09 00:21:33
みんみんぜみ @inuchochin

以上の中世武芸と近世武芸の差は、いまでも一般的に介者武芸と素肌武芸の差だ、とよく言われるものを含んでいる。でも良く見るとあまり言及されない構えの拳の高さや、切っ先の位置、弓の使い方なんかにも言及されていて、さすが研究者です。

2014-02-09 00:24:15
みんみんぜみ @inuchochin

で、さらに介者だから一般的にいわれる点についても疑問を投げかけています。以下抜粋。 「これは一般的には中世の武芸は戦場で丈夫で重い甲冑を着けて働くのに適応して形成されていたのに対して、近世は身軽な素肌本位に改作されたためといわれる。だが、これは簡単に判断できない。(続く

2014-02-09 00:26:23
みんみんぜみ @inuchochin

続き 「体の前掛りの点などは、平安鎌倉の公家社会の弓術にも同趣の姿が見られ、更には武芸に限らず他の諸芸にも共通点があるからである。中世的な姿を比較的よく伝えたと思われる能や、狂言には今日もそのような趣が保持されている。(続く

2014-02-09 00:27:04
みんみんぜみ @inuchochin

続き「否、近世的な歌舞伎の型にすら右に述べたような古風の面影が残っている。武芸だけが江戸時代に入ると、ずんずん古い芸の姿を失ったような気がする。それだけ武芸界には、新時代に適応すべく新工夫が旺盛だったのであろうか。今はただ姿勢の趣の変化した傾向を述べるに止めて置く。」

2014-02-09 00:27:23
みんみんぜみ @inuchochin

島田先生の考えに依ると、中世武芸は鎌倉時代から南北朝前期にかけては弓馬故実が中心で、それも射法や騎乗の技術よりも流鏑馬等の礼式、咒術、道具製作方法由来等の故実知識といった武家社会の格式的なものだったそうです。いかに弓馬の礼式の際、武士としての役目を全うするかを重視していたそうです

2014-02-09 00:48:42
みんみんぜみ @inuchochin

兵法(刀槍)はその頃は表に出て来ず、それよりかなり遅れて発展し始め、室町時代はじめに上級武士が学ぶ風潮があらわれたとあります。それは戦闘が弓馬から打物重視になった点にも関連があると思われるとありますが

2014-02-09 00:49:06
みんみんぜみ @inuchochin

当時はまだ弓馬に比べれば社会的地位は低く永く在野の芸として行われていたとあります。またその特徴も、僧兵の兵法鍛練の絵図を示して、咒的要素や曲芸的な要素があったとだろう、としています。 http://t.co/plWZwmhYEo

2014-02-09 00:50:43
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みんみんぜみ @inuchochin

「戦国大名たちは旧来の弓馬故実のみにあきたらず、新しい教養として兵法を求め、回国する武芸者を引きとめて学ぶ風潮となった。 戦国武将たちにとって、兵法は茶の湯や古今伝授と並ぶ文化であったとしています。武芸の性格も人々の武芸観も後世のような鹿爪らしさは少なくおおらかだった」とあります

2014-02-09 00:52:34
みんみんぜみ @inuchochin

室町時代後期、戦国時代になると弓馬の術も故実知識重視から騎乗、射法を重視する流派が現れ始め、新当流、陰流、中條流などの流派が古代的な咒術的な要素を含みつつ、「武技的な意義を豊富にもちつつ、天下泰平の理想や求道的性格を色濃くしながら武士の表芸として急激に進出して来た」としています。

2014-02-09 00:51:28
神無月久音 @k_hisane

この辺、確かに気になりま砂。中世の日常を考えると、素肌剣術は普通に需要あるでしょうし @inuchochin 一般的には中世の武芸は戦場で丈夫で重い甲冑を着けて働くのに適応して形成されていたのに対して、近世は身軽な素肌本位に改作されたためといわれる。だが、これは簡単に判断できない

2014-02-09 00:38:41