細馬宏通さんの連続ツイート 音楽における記譜の偏重について

「記されたものによって表現する、記されたものを克明に読む、という文学モデルから、音楽を語ることばはそろそろ離れてもよいのではないか」
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細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

伊東乾さんの論評。現代音楽という分野で新垣さんの立場を立てる態度で書かれているのはわかる。でも、何らかの制約のもとに書くことに創造性を発揮し、そこに自分の名前を刻む音楽家は何人もいる。彼らの営みを過小評価するのはへんだなと思う。 http://t.co/5YSMNEoote

2014-02-08 23:30:08
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

佐村河内氏の件で象徴的なのは、作曲と演奏が全く分かたれていること。そして記譜された作曲というものに価値が置かれていたこと。もちろん、そのような価値体系はあってもかまわない。でもそのような(あえて言えば)古色蒼然とした形式だけが音楽のあり方ではない。

2014-02-08 23:38:29
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

作曲と奏者、あるいは演奏が分かちがたく結びつくという現象は、武満徹や高橋悠治の諸作品を挙げるまでもなく、現代音楽でも知られていることだろう。できあがった音楽から、記譜されたものに遡り、その記譜のあり方のみによって作曲家を評価するというのは、限られた音楽観だと思う。

2014-02-08 23:57:56
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

記譜における協和音、不協和音という区別さえ、演奏では全く違う様相を帯びる。週刊文春の「不協和音」ということばづかいは古い。それは協和/不協和という記譜上の価値観に縛られている点で古いのだ。ドミソと書かれた音符から、いくらでも多様な音色、不協和、演奏が生じる。

2014-02-09 00:07:50
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

佐村河内守氏の件は、図らずも、記譜/演奏/物語の関係が、いかに旧弊に切り分けられ、役割分担されうるかをよく現していると思う。彼は、記譜という営みを、閉じられたブラックボックスにすることで、世評を得てきた。その一方で、記されたものではなく、記すという行為を価値づけてきた。

2014-02-09 00:55:19
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

絶え間ない偏頭痛や難聴など、書くことの困難を訴えることで、記す身体がアピールされる。記された譜面でも演奏する身体でもなく、記す身体こそが、ドキュメンタリとして取り上げられた。

2014-02-09 00:58:30
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

彼の交響曲をきく人の多くはおそらく、そこに記す身体をききとって心動かされたのだろう。記そうとして痛む身体、記そうとして嘔吐する身体、記そうとしてのたうちまわる身体。

2014-02-09 01:01:37
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

NHKのドキュメンタリは、佐村河内氏の「絶対音感」によってメロディが一つずつ重ねられてポリフォニーとして描かれていくさまをCGで表現し、分厚いスコアの紙束に彼のサインが記されているところをアップで写している。ただ、彼がリアルタイムで作曲するさまだけは写されていない。

2014-02-09 01:44:51
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

記す身体があることだけが繰り返しほのめかされ、一音一音を生み出すのに伴う辛苦が描かれながら、肝心の記す現場だけは欠けている。そのようなドキュメンタリを見た人が、できあがった交響曲をきいて、そこに記す時間を見いだし、記す現場を想像しようとするのは、ごく自然なことだろう。

2014-02-09 01:52:25
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

でも、嘔吐しながら書いた音楽が思いがけず軽く明るく、喜びに満ちて聞こえることだってあるし、演奏者がそこに思い思いの情感をあてはめていくことのできる記譜のあり方だってあるはずなのだ。

2014-02-09 02:03:06
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

記されたものによって表現する、記されたものを克明に読む、という文学モデルから、音楽を語ることばはそろそろ離れてもよいのではないか。

2014-02-09 03:30:07
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

音楽を作ること=作曲=一人で譜面を書くこと、という考え方が、もうどうしようもなく古くて狭いのだ。

2014-02-09 15:57:05
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

TLに伊東乾氏の論 http://t.co/5YSMNEoote の紹介が繰り返し現れるのではっきり反論しておく。 

2014-02-09 17:54:23
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

1) 伊東乾氏の議論に「世間で流通する商用の音楽は、既存の「書法」の使いまわし」という表現がある。「書法」ということばに作曲=譜面主義が端的に現れている。譜面の簡単さによる評価は音楽の限られた部分を言い当てているに過ぎない。

2014-02-09 17:54:39
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

2) そもそも音楽は「書法」のみによって成り立っているわけではない。一部のクラシックのように作曲行為と演奏行為とが分断されているとも限らない(そうでないことのほうが多い)。また、作曲過程において記譜に現れない演奏上の新しさが表れうる。

2014-02-09 17:54:57
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

3) 書法においてのみ新しさを求めるのは、書法の教育と鑑賞体系に支えられているローカルな制度に過ぎない。あらゆる音楽に対して、もっと開かれたきき方をすればよい。ちなみに、「現代音楽」こそはそういう凡庸な書法観を批判する場所ではないのか。

2014-02-09 17:55:18
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

4) 「作曲課題の<実施>」に何らかの凡庸さやつまらなさが宿っているのはおおよそ想像できるが、それは単に既存の音楽教育のある場面がつまらないという話で、それを商用音楽一般にあてはまめるのは、世の中の音楽をただ矮小化しているだけである。

2014-02-09 17:55:39
細馬宏通(『フキダシ論』) @kaerusan

5) 新垣氏が「余技」でやっていたかどうかなど私は知るよしもないが。楽々とできるということと「余技」はイコールではないだろう。少なくとも、ご本人が「大事な」作品と言っている音楽を端からそのように価値づける気にはなれない。以上です。

2014-02-09 17:57:36