【三国志】続・二宮の変への理解 2014.02.15
- korekorebox
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孫権的には孫覇を魯王宮に引っ越させ、太子府の属官の一部を家臣として分与した事で所謂「嫡庶の別」はハッキリさせたつもりだったんだろう。実際、群臣のトップ顧雍との合意の上でだったし。
2014-02-15 11:38:45既に「嫡庶の別」問題は群臣との合意の上で242年時点で解決したのに、その後に起きた後宮紛争で孫和が不利になると、相対的に地位を高めた孫覇の存在が危険なものになり、また最初の合意を主導した顧雍も亡くなった為に、244年以降、後から蒸し返す形で「嫡庶の別」が再び問題視された。
2014-02-15 11:42:14@daradara3594 孫権「あんとき決着してるのに何また蒸し返して煩く言うとんねん。あーもうええわ、お前等がそういう気なら廃嫡するわ」
2014-02-15 11:43:54@Golden_hamster 孫覇を太子にしたい、孫和をしたくない、ではなく孫権は群臣の変節に嫌気が差したように思えてきますね。そもそもの原因は孫権の王夫人冷遇ですけども。
2014-02-15 11:49:15@daradara3594 孫権が皇后に歩氏立てようと思ったのに肝心な太子とその愉快な仲間たちが反対してできなかったことが後宮ですごく後引いてそう。歩夫人さんサイドは孫登の系統の人のことは全員絶許でしょう。
2014-02-15 12:00:37@Golden_hamster 孫登存命中ならともかく、彼が死んで地盤の無い孫和が立ったとあれば、自分に優位な形に持ってこうとするのは当然ですね。
2014-02-15 12:11:30@Golden_hamster 他の夫人から見れば、もともとは同じ歩夫人の子分に過ぎなかった王夫人が、孫登が亡くなった途端、いきなり正妻面して自分達に圧力かけてきた訳ですから、「ザマァ」ともなりますね。王夫人の拠り所だった孫権の寵愛も、歩夫人に次ぐ座にあったのは袁夫人でしたし。
2014-02-15 13:09:03歩夫人の件は二宮の泥沼化した要因の一つなのは間違いないわなぁ。二宮どころかその後の呉の内紛の主な要因として十年単位で尾を引いた感じだけど
2014-02-15 12:06:42既に「嫡庶の別」問題は群臣との合意の上で242年時点で解決したのに、その後に起きた後宮紛争で孫和が不利になると、相対的に地位を高めた孫覇の存在が危険なものになり、また最初の合意を主導した顧雍も亡くなった為に、244年以降、後から蒸し返す形で「嫡庶の別」が再び問題視された。
2014-02-15 11:42:14そう考えると二宮の変もいつもの「孫権が既に決めた裁定を群臣達が後からひっくり返そうとする」という展開だ。今度という今度は孫権も強硬姿勢を保ち泥沼化。
2014-02-15 11:45:30二宮の変の孫権も孫覇方も孫和方も妥協を排して自分の主張の丸のみを求め続けた結果、誰も落としどころを見いだせなくなって釜の底が抜けてしまった感はまさに孫呉地獄。
2014-02-15 11:54:40当初、孫和立太子時に顧雍ら群臣は「封四王(孫覇、孫奮、孫休、孫英?)」を提案し、孫和以外の全ての皇子の封王を要求していた。顧雍の本音では孫慮のように地方への出鎮もすべきと考えていただろう。同様の意見は孫登存命中から腹心の胡綜も提案していた。
2014-02-15 11:58:15内外からの提案で孫権も譲歩せざるを得ず、その結果が既に元服していた孫覇だけを魯王に封じるが、待遇はこれまで通り孫和の住まい南宮で養い、面倒も太子府でみるというもの。顧雍は孫覇のみ封王は受け入れたが、その待遇は「嫡庶の別」を乱すとして「別宮分僚」すべきと重ねて求めた。
2014-02-15 12:01:14孫権は折れて「別宮分僚」≒孫覇の南宮退去、魯王宮造営、太子府の一部属官(これが楊竺ら?)の魯王府転属を呑み、これで「嫡庶の別」は解決した、というのが孫権と顧雍の認識だった。残る問題が顧雍が四王封建と合わせて提示した呉王時代からの懸案「立皇后」問題。
2014-02-15 12:04:22・@daradara3594 189~194年 219~224年 239~244年 258(12月孫綝死ほとんど259)~264年と、ほぼ20年ごとに重大な政変が起きている孫呉。まさに何という因果(ノ)゜Д゜(ヾ)ムニムニ
2014-02-15 12:06:19@korekorebox 二十年というのは有力者の世代交代の周期にあたり、その為に二十年毎に新世代と旧世代の抗争が起きていたのかもしれませんね。
2014-02-15 12:09:50孫休さんも急病で死にそうな時に昔から仲良しだったはずの重臣に息子に跡継がせるよう、必死で説明したのに、重臣たちは親戚の若者を跡継ぎに立てやがったわけで、んでその親戚の若者が呉の最後の皇帝なの、すごい呪われ方だと思う。
2014-02-15 12:31:43