ICCオープンスペース パフォーマンス:ucnv+大城真 の感想ツイートなど
- misonikomioden
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昨日はICCで、グリッチを巡るトークイヴェント拝聴。自分は元々グリッチについては改行・折り返しという形式化(質料に対する形式の嵌め込み)の権力性からの逸脱の可能性として興味を持っていたのだけれど、必ずしもそうともいえないみたい。
2014-02-17 22:33:30というのも、ucnv氏、谷口暁彦氏がグリッチに求めるものはカメラの内側なりフォーマットの性質なりの表れで、それは形式化を免れるどころかむしろ形式(まさにjpegとかgifとかのファイル「形式」)をこそ見て取ろうとする態度であって。
2014-02-17 22:35:43「グリッチはエラーではない」。コンピュータは受け取った文字列を愚直に画像という形式に翻訳するだけであり、その対象などは完全に代替可能なわけで…そこではグリッチの生じた画像と生じない画像との区別さえ存在しない…ならばあえてグリッチにこだわる理由は何?
2014-02-17 22:38:52その理由は例えば像の(それを見る人間にとっての)崩壊がそれを支える形式の透明性を奪い去り、現前させる(ガラスの指紋がそこにある窓の存在を教えるように)からなのだろう…でもこれって余りに消極的に過ぎるのでは?
2014-02-17 22:42:48画像の演算性の美学(http://t.co/9fEo9QFnJN)…単一原理、低解像によって露呈する形式、の美。でもその原理は当然バリバリのハイビジョン画像にも等しく働いているわけで、結局のところそれは人間様の能力に合わせて誇張された画面だったりする。
2014-02-17 22:48:47都築潤さんと中ザワさんがそれぞれベクターとビットマップという単一原理(そしてその果てに両者が重なり合う地平?)の追及という方向性を目指して、それは演算性の美学と称するに相応しいとして。
2014-02-17 22:55:33それに対して例えば梅沢和木さんと下野薫子さんの作品は、むしろこの二つの原理の相互依存性を、それぞれの形で探究しているように私は感じる(シェイプトキャンバスならぬ「シェイプトピクセル」と、私は呼びたい、)。
2014-02-17 22:58:11ようはグリッチというものはどう足掻いても一つの画面、一つの形式の表面をくるくるしているだけに過ぎないわけで。 これは例えば織物におけるほつれとは別のものなのか。
2014-02-17 23:07:5320×20の400字詰め原稿用紙の形式が線的発話を「文面」へと仕立て上げる。 織機の形式が絣の模様を保証する。 グリッチを通してそれらの仕組みがよく分かりましたよかったねというわけだけれど、発話はもつれ韻を踏むし、織物は切れほつれ絡まるものだし。その脱平面性が気になるのもたしか。
2014-02-17 23:23:32あと、コラージュのコワさのひとつもこの辺りに由来しているように思えて。あれは輪郭線と色面とをしれっと跨いで切り抜き切り裂き継ぎ並べてみせる。
2014-02-17 23:37:46@10aka_ 私はグリッジにすごくこだわってきたけど「織物におけるほつれ」ってとても惹かれますね、素敵な言葉だと思います。
2014-02-18 01:47:56@fightpanda グリッチ・ニット( http://t.co/KvgmoFKsTj )という作品、プリントではなく織布プロセス自体にグリッチを持ち込んだものらしく、その織物の平面からずれ落ちたずたずた感、気になっていたりするのです…。
2014-02-18 06:48:56グリッチがただの現象だよね、で終わってしまう気がしなくもないのは、その発展性があまりないのではないか、と思われる点、つまりハック可能性みたいなものがそんなにないかも、っていう点のためにも思われる。ハッキング(的行為)は批評的行為たりえる気がする。
2014-02-18 19:09:21グリッチが、油を燃やすような、「現象」でしかなくとも、例えば美術館の中でテレピンを燃やすパフォーマンスとかは、アートとして成立しちゃう気がする。画像が正統的なメディアである場所においてはグリッチは批評的行為と化すだろう。
2014-02-18 19:12:08破損の仕方が全くの意味不明であれば、ファイル形式の固有性はそこには表れない。人間に理解可能である程度の破損だからこそ、それがファイル形式を示してくれる。
2014-02-18 19:15:15コンピュータのあまりの愚直さを、何の比喩として見るのか、という立場の違いで、グリッチの解釈、あるいはグリッチアートの解釈を分けることはできそう。
2014-02-18 19:18:45