2014年3月1日

山本七平botまとめ/【正統と異端・護教論とその裁定①】仏教と十字架のキリスト/新約編集史=西洋の精神形成史/日本には生じなかった護教(弁護)論

山本七平著『比較文化論の試み』/7正統と異端・護教論とその裁定/67頁以降より抜粋引用。
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山本七平bot @yamamoto7hei

①【正統と異端・護教諭とその裁定/仏教と十字架のキリスト】”言葉にする”という場合に、理由が二つあるんです。 前述のように、一つは臨在感を歴史的に把握し直す為の知識化です。 これは言葉にしない限り不可能で、その言葉はいわば”太初(はじめ)”に基本が置かれねばならない訳です。

2014-02-26 22:39:29
山本七平bot @yamamoto7hei

②しかしここで、もう一つの問題がでてきます。 歴史的に把握しなおすとすれば、すべては、歴史上の一事件として過ぎ去ってしまうわけです。 すなわち、そこで一切の臨在感は消えてしまいます。<『比較文化論の試み』

2014-02-26 23:09:13
山本七平bot @yamamoto7hei

③これは非常に面白い現象ですが、私があるまじめな仏教徒に 「仏像に手を合わせているとき、 『フッダとはかくかくしかじかの歴史上の一人間である』 と常に、その傍らで言われていたらどうなるか」 と質問をしましたところ、 「シラケますねえ」 という返事がかえってきました。

2014-02-26 23:39:13
山本七平bot @yamamoto7hei

④これは実に面白い返事でして、歴史的に把握しなおしますと、ブッダの存在は歴史上の一事件に還元されてしまいますから、そのブッダが臨在するという把握ができなくなるわけです。

2014-02-27 00:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤この点、非常に面白いのが、初代キリスト教徒における正統・異端論争なのです。 キリストの死を歴史上の一事件として把握するか、 また 十字架にかかったキリストを目の前に臨在する対象として把握するか、 ということです。

2014-02-27 00:39:14
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥この場合、臨在感的把握だけですと、自己の把握できる形にキリスト像を変型する事になります。 この考え方は異端者マルキオンといわれた人などには、はっきり出ていまして、彼は、自己の把握の仕方に基づいて、『新約聖書』を編集しなおそうとしました。 こういう考え方は排除されるわけです。

2014-02-27 01:09:00
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦では、これをあくまで、歴史上の一事件として把えればよいのでしょうか。 そう考えれば、イエスはもはや宗教的把握の対象ではなくなってしまいます。 とすると、これも異端なわけです。 ここに「正式」という考え方がでてくるのです。

2014-02-27 01:39:15
山本七平bot @yamamoto7hei

①【新訳編集史=西洋の精神形成史】『新約聖書』は、約三百年ぐらいかかって、徐々に成立していったもので、当時存在した多くの典籍は、外典・偽典として、あるいは消え、あるいは排除されて史料として残っております。<『比較文化論の試み』

2014-02-27 02:09:01
山本七平bot @yamamoto7hei

②この「排除の歴史」すなわち、あるものを「正典ではない」として除外していった歴史が、西欧の精神形成史といえるわけで、 西欧の基礎となった新約思想とはなにか、 と問われれば、この編集史がそのまま一つの思想なのです。

2014-02-27 02:39:23
山本七平bot @yamamoto7hei

③ではその思想の基本にあったものはなにかと、いいますと、 歴史的把握と臨在感的把握の接点にいるものが、人間だ という把握の仕方です。

2014-02-27 03:09:05
山本七平bot @yamamoto7hei

④従って『新約聖書』の中のある部分、例えば「ヨハネ文書」などは、グノーシス的異端の考え方と、文字通り「紙一重の差」といわれる程、把握の仕方が臨在感的でありまして、グノーシスが異端ならば、なぜこれが異端でないのか、不思議に思われるはずです。

2014-02-27 03:39:15
山本七平bot @yamamoto7hei

⑤これはまた、当時の「正統・異端」論争を読んでみましても、一体全体、どちらがどちらの立場で、どれがどれを批判しているのか、まことにわかりにくいことにもなります。 そして、なにやら、互いに難くせをつけているような感じにさえなってきます。

2014-02-27 04:09:06
山本七平bot @yamamoto7hei

⑥なぜこうなるのか、恐らく我々なら、 「人間とは所詮そういったものだ」 で、討論を打ち切るからでしょう。 これは、言葉による探究をある限度で打ち切る考え方ですが、この考えは「世の中とは所詮そういったものだ」という形にも表われてきて、いわば、一種の打ち切りの論理なのです。

2014-02-27 04:39:34
山本七平bot @yamamoto7hei

⑦こういう行き方をしますと、その「人間」という定義が「言葉にならない」ことになります。 【日本には生じなかった護教(弁護)論】われわれは、これで平気ですごしてきたわけです。

2014-02-27 05:09:10
山本七平bot @yamamoto7hei

⑧いわば 「ナトゥウラ(註:ナチュラル・ロウ/自然法)に規定される人間とその社会」 とは、それの前で言葉を打ち切ることによって、いわばその部分を空洞のように残すことによって規定しているわけです。

2014-02-27 05:39:24
山本七平bot @yamamoto7hei

⑨これで我々が何の不自由もなかった一番大きな理由は、「思想闘争」というものが、いわば、それに敗れれば命を失うといった文化闘争が存在しなかったからでしょう。 従って、護教論は存在しませんでした。 もし日本が護教論が必要な世界でしたら、こうはならなかったでしょう。

2014-02-27 06:09:05
山本七平bot @yamamoto7hei

⑩といいますのは、言葉にしない限り、その思想は明確でありませんから、言葉でその思想を守る必要もないわけです。 まあ、神道はその両方の必要がなかったわけです。

2014-02-27 06:39:37
山本七平bot @yamamoto7hei

⑪ところが、一つ必要となれば、必然的にもう一つの護教論が必要になります。 これはアポロギア(apologia)といって、西欧では、文学類型を形成する大きな分野だったんです。 護教論と訳してますが、むしろ、弁護論でいいと思います。

2014-02-27 07:09:16
山本七平bot @yamamoto7hei

⑫これは…自分達の”考え方”を弁護するという事です。 これが非常に多いんです。 私達はこういう考え方をしている、 それが絶対不合理なんじゃないんだと外に対して弁護する。 これが一番多く出たのも初代キリスト教時代…その為に弁護論が護教論となった訳ですが、それ以前からあります。

2014-02-27 07:39:38
山本七平bot @yamamoto7hei

⑬自分たちはこういう考え方をするということを宣言することは、一見簡単に見えますが、しかしこれは、一方的宣言では無意味で、あくまでも相手の言葉で言わなくてはならない。 そうしないと相手に理解できないから無意味です。

2014-02-27 08:09:31
山本七平bot @yamamoto7hei

⑭相手の言葉というのは、翻訳という意味ではなく、相手の使っている言葉、すなわち、相手の考え方で説明しないと相手に理解できない。 そうしないと護教論になりませんが、これは実は、大変にむずかしいことなんです。 まして、自分の世界の最も大切な定義を空白にしていては、不可能です。

2014-02-27 08:39:36

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