小泉義之さんが読む平倉圭『ゴダール的方法』

平倉圭著『ゴダール的方法』(インスクリプト、2010年12月)刊行直後の、小泉義之さんによるツイートをまとめました。
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小泉義之 @sentanken
『美術史の7つの顔』(2005)所収のピカソ論によって、待ってさえいれば優れた人は出てくるものであると気づかせてくれた平倉圭の『ゴダール的方法』を拝読。
小泉義之 @sentanken
平倉圭『ゴダールの方法』:今の私は後半より前半に惹かれる。今の私は、前半が後半へ移ることに意義を見出す気もあまりない。その辺は措いて、未咀嚼のままだが初発の感想を。
小泉義之 @sentanken
知覚と解像度の議論(序章)は開拓者的なもので今後の基準となる。その上で、私に見通しがあるわけではないが、解像度(高低)の単位・計量設定の問題があると思う。あるいは、知覚経験における単位・像の設定の問題があると思う。(もちろん脳神経科学に関係する)
小泉義之 @sentanken
諸項を関係させるものに関するドゥルーズ批判は正当(pp. 40-42)。ドゥルーズの側からの、「信」に依存しない、「問題がたんに一次元繰り上げられているだけではない」応答は可能だと私は思っている(気がする)。事は、平倉圭も見抜いているように、コヒーレンスに関わる。
小泉義之 @sentanken
世界の映画化、世界のヒューム化:項の結合(単位としての項とは?)における「類似」:再読しなければならないが、「類似」に多義性がある。時間的パターンの類似(p. 57)は本文と齟齬しないか。これも上と同じ問題。
小泉義之 @sentanken
事は、平倉圭の「方法」評価に関わる。とくにダイアグラムを「見て」、「位相」を「語る」方法。事は、顕在化の「身体プロセス」にも関わる。それが著者と共に歩む本書の読書経験として提示される限りで「方法」は成功しているが。これも上と似た問題(しか言えない)。
小泉義之 @sentanken
外在的かつ粗雑に、こう言えばよいか。通常科学者と同じく、「結合問題」(p. 62)が疑似問題である可能性に怯えていないのだ、と。
小泉義之 @sentanken
(「何と恐ろしい夕方の五時」(ロルカ)は、ゴダール経由でドゥルーズ/ガタリ『千のプラトー』に到達との指摘(p. 73)は、ちょっとジーンとしました。(なんだかんだ言って、私は『はなればなれ』のダンスシーンにジーンとします))
小泉義之 @sentanken
ダイアグラム、すなわち、Gilles Châtelet(L'Enchantement du virtuel)(自死)問題、とメモしておく。
小泉義之 @sentanken
ドゥルーズに「見ること」への怯えを指摘する条りは見事(第四章)。でも、平倉圭の指摘は他方で、後半のゴダールに依存しすぎ。私なら倫理政治的にはこう受ける(受け流す)。「なし崩し」程度のことは日常的にテレビでも新聞でもネット画面でも起こっている。怯える(べき)場はそこにはない、と。
小泉義之 @sentanken
世界のヒューム化そのものは、ゴダールのなし崩しを凡庸な一例に還元しないか。
小泉義之 @sentanken
“月は円い。バスケットボールは円い。だからそれらは「同じ」だ”(p. 202)と、“草は死ぬ。人は死ぬ。人は草である”(p. 213)は異なる。前者を通俗的結合問題(共通感覚問題)を越えてダイアグラム論理へ開くことと、後者(言葉)を何とかして知覚経験へ接続することは全く違う。
小泉義之 @sentanken
平倉圭が見立てるように、「密着性=一貫性coherence」こそが思考の論理であり、それを取り出したい(p. 220)。しかし、映画はそれだけでその願いに本当に応じられるのだろうか。
小泉義之 @sentanken
とはいえ、平倉圭『ゴダール的方法』が書くように、やはり映画が思考するのであり、音と映像によって音と映像を思考する方法が要る。そして、平倉書を潜るのでなければ、思考の経験論を書くこと(見ること?)は決してできないだろう。
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