テニミュという子宮からようやく産まれるキャストへ「青少年、いつか俺を越えて世界へ行けよ」
(1)暗闇~僕は誰(リプライズ)での “暗闇”が胎内、「テニスって楽しいじゃん!」と客席からでも目を細めるほどの眩い照明が当たるシーンでリョーマが誕生(産まれる)んだとすると…って考えてたら…ああこれってまさしく1stシーズンの最後でやるものだったんだ!て気付いた。
2010-10-28 23:21:42(2)テニミュのメイン層は女性で、そしてテニミュってもの自体が子宮っぽいなと思った。テニミュに出演している間、そのキャストはテニミュという殻に庇護されているように感じる。 実際、ファンがあんなに守っているところってそんなにはない気がする。
2010-10-28 23:24:55(3)そして出演しているのは、今まさにデビューしたばかりの新人多数。テニミュ自体が子宮だとすると、1stシーズンが終わり、キャストが子宮から出て行かなければならないときだってことで、そこがまたリョーマの演出とシンクロしているのね。
2010-10-28 23:27:33(4)リョーマの誕生を待ちわびる南次郎の台詞「早く出て来いよ」が、そのまま上島先生の言葉になって、テニミュを卒業していく彼らを、ようやく産まれる彼らを見つめる優しい眼差しとともにきこえてきます。
2010-10-28 23:30:52(5)そう考えると、上島先生は子宮を持つ母親でありつつ父親でもあったのかと思うと、あれ……これは ネ申 と呼ばれるものではないのか…とか。 終わり。誰か続けておもしろい話して!
2010-10-28 23:35:07@tranta_ テニミュ自体が子宮っぽいとするのなら、それを形成するものとして、私たちもおなかの子(キャスト)のことを思うのは当然で、舞台上で起こることを時に自分のことのように共感したり、テニミュって(役者って)楽しいじゃん!と繋げることもできたりするのかなって思いました。
2010-10-29 00:19:41@sayamid 基本的にそれだと思うの 失敗しないかなってドキドキしたり、失敗しても笑えたり、上手くできて一緒に喜べたり、それはおなかの子だからでしょうね 逆にテニミュを卒業して個人活動→自立は母親としては頼もしくも寂しいものなのかもしれません
2010-10-29 00:25:28(1)昨日の「リョーマが天衣無縫の極みに目覚める=産まれる」=「テニミュ1stシーズンの終了→ミュキャスの卒業」を考えながらFINAL後編見てた
2010-10-29 08:18:29(2)そうしたら、会場に駆けつけて天衣無縫についてその場にいる全員に語りかける南次郎の台詞がそのまま、上島先生からあの板の上の全員の役者に向けての言葉なような気がした
2010-10-29 08:22:20(3)トップクリエイターて子供みたいなとこあるじゃん それってまさに天衣無縫の極みなわけだ あの場にいる役者がこの後どんな道を歩むのか分からないけど、あの役者たちの5年後10年後20年後に向けて南次郎はあの台詞を言っているのかも
2010-10-29 08:26:54(4)食ってかなきゃ、あるいは逆に目の前に仕事があるから? よく見られたいから? そういうことのために君たちは今その世界にいますか? 一番最初に感じたのは何ですか? なぜ今まで続けてきましたか?
2010-10-29 08:31:31(5)その答えのひとつにテニミュも入るんじゃないかと思ったらぐっときた。そうであるといいなあ。エンターテインメントの世界で生きることは難しい。「仕事って(生きるって)こんなにつらかったっけ…」そうよぎることもあるだろう
2010-10-29 08:36:31(6)そのときに「テニスって楽しいじゃん!(テニミュって楽しかったじゃん!)」て思って欲しいな。今より稚拙だったけど、演技することも歌うことも踊ることも楽しかったし、だから表現の世界に身を置いてきたんでしょう?
2010-10-29 08:42:35(7)テニミュが内包する世界は果てしなく広くて、単純にステージから観客へ、というひとつの矢印だけじゃない。複雑に、それこそ地図が広がるように広がってゆく想いの連鎖があると思った。終
2010-10-29 08:48:13