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山本七平bot @yamamoto7hei
①【「冨」は否定せす、それを得る自らの規範こそか問題】…(原文省略)…これをごく普通に読めば 「富を求めることが私にもできる世の中ならば、市場の門番でも貴人の露払いでも何でも、私はこれをいとわない。 もしそうでなければ、自分の好みにまかせて生きる」 の意味であろう。
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②だが、後の世に孔子が「聖人」とされると「孔子様ともあろうお人が、そんなことは言う筈がない」となって、様々な解釈が生まれる。 例えば、宋代の詩人・書家で「唐宋八家」の一人である蘇東波は 「孔子は富を求める意志はないから、求められるとか求められないとか考える筈がない。」
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③「しかるにこのように言われたのは、特に富のけっして求めることのできないことを明らかにしたのである」 とし、宇野哲人はその解釈を基にして註解している。 だが、戦後にはこういう読み方をする人はいないし、「論語』の全体から考えて、この註解には無理があるであろう。
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④孔子はけっして「富そのもの」を否定しておらず、弟子の子貢が商売をしているのをべつに止めていない。 「子曰く、回(顔回)は年中貧乏暮らしというところ。賜(子貢)は命ぜられなくても、金儲けに熱心だ。彼の見通しは大てい的中する」(宮崎市定訳)
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⑤そして、これとは逆に「貧」を否定している場合がある。 彼はけっして「貧しき者は幸いなり」とは言わなかった。
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⑥「固く道を信じて学問を好み、命にかけても道を全うする。亡びかけた国に行かず、乱れた国に留まらない。 天下に道があれば出世するが、乱れた世の中なら隠れる。 国に道が行なわれているのに貧しくて地位がないのは恥だが、道が行なわれていないのに富み、かつ出世するのは恥である」
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⑦「富とよい地位は誰でも欲しがるものだ。 しかし正当な方法によってそうなったのでなければ、そこに安住しない。 貧乏と低い地位とはだれでもいやがるものだ。 しかし、当然の結果としてそうなったのでなければ、それを避けない。 君子は仁を取りのけて名を成すことができようか。」
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⑧「君子は食事の間も仁を忘れず修養する。慌しいときも、うろたえるような場合でも、必ずそうすべきですぞ」 孔子はけっして「富そのもの」を否定せず、高位高官となることも否定しない。 ただ、それを手にしうる客観情勢と、その中でそれを得る自らの規範のみを問題にしている。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑨従って「当然に貧乏になるような事をして貧乏でいる」のは少しも立派ではない。と同時に、不正によって富を得る事も立派ではない。「子曰く、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。楽しみまたその中に在り。不義にして富み且つ貴きは、我に於ては浮雲の如し」…この文章に解説は不要であろう
山本七平bot @yamamoto7hei
①【教育は「時に興り、礼に立ち、楽に成る」】孔子が、なぜ「礼の専門家」のような方向に行こうとしたのか。 これははっきりとはわからないが、恐らく当時の状況は彼が良心的に耐えられないような方法でしか、現実の貧乏を脱却できないものであったという事情も作用していたであろう。
山本七平bot @yamamoto7hei
②「敗けず嫌いの人が貧乏に耐えられなくなるとやけになる。 他人がいかに不人情だからといって、憎しみをあまり昂じさせると暴力沙汰をひきおこす」(宮崎市定訳) という状態は、一つの実感としてあったであろう。<『論語の読み方』
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③そしてこの状態を、内的規範においても、また社会秩序の面でも克服しようというのが、孔子がその道を選んだ動機であったかもしれない。 この精神的秩序と社会的秩序の一体化、それも一種の「美的一体化」とでもいいたい方向に孔子が進んだ事の背後には、強い美的感受性があったものと思われる。
山本七平bot @yamamoto7hei
④…孔子はまず「言葉」が第一で、それを知らねば「言う」だけでなく「知る」こともできないとした。 「言葉を知らざれば、以て人を知ること無きなり」 で、実はこれが「論語』の末尾の言葉なのである。
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⑤孔子はもちろん言葉を学び『詩経』とともに『書経』を重視した。 これは、魯国の祖先の周公が色々な機会に述べた意見や訓戒が中心になっている。 「野に遺賢なし」 「食言せず」 「みな一徳あり」 「備(そなえ)あれば憂(うれい)なし」 …など、(続
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⑥続>我々が何気なく使っている言葉の中に「書経』からの不知不識(しらずしらず)の引用が多いが、孔子が読んだ『書経』と現存するそれとが同じか否かは明らかでない。 しかし、いずれにせよ彼は、自らの国の歴史的教訓を学んだわけである。
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⑦【「三十にして立つ」古奥の学習は終了】さらに孔子は「礼の実際」も学び、その点では相当に神経質で、自らに厳格であったように思われる。 この孔子が「礼」の実際を学び始めた若い頃に、次のような挿話がある。 【孔子が魯の祖先を祭る太廟に入って祭りを助けた時、事ごとにたずねた。】
山本七平bot @yamamoto7hei
⑧【するとある人が 「鄹(しゅう)生まれの小せがれ(軽侮した言い方)が礼を知っているといったのは誰だ。何も知らないじゃないか。太廟に入ると一々人に聞いて行なっている」 と。孔子がこれを聞いていった。 「それがすなわち礼なのだ」と】
山本七平bot @yamamoto7hei
⑨この言葉はさまざまに解釈され、また「成上り大夫」孔子に対する魯の貴族たちの反撥、新旧勢力の祭儀における対立なども見られるであろう。 だが、これはこのままに読めばよいと思う。
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⑩と同時に、一方は「孔子は礼を知らないがゆえ」にそうしていると思い、孔子は「そうするのが礼であることを知っている」がゆえに、そうしているわけで、ここに「知る」ということへの孔子の考え方が表われていておもしろい。 しかも、これはまた『論語』の基本的な考え方である。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑪いずれにせよ孔子は、常にそのようにして学びつづけた人であった。 そして「三十にして立つ」は、ぉそらく当時の『詩経・書経・礼記』などの古典の学習を終え、一人前の学者として独立の道を歩みはじめた ということであろう。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑫更に孔子の性格や、また晩年の生き方などから見ると、世が平和だったら、恐らくその生涯は「孔子学園」の長として「古典研究者・編纂者・教育者」で一貫していたのではないかと思われる。 だが、当時の世界は彼を政治に巻きこみ、ある意味では失敗した政治として、長い亡命流浪の旅を彼に強いた。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑬しかし、この経験がなければ、いかな孔子でも、人の心の奥底や社会の一番の基本にせまるような洞察は生まれなかったかもしれない。 亡命流浪は人を偉大にする。 ダンテの『神曲』には「他人のパンはいかにからく……」にはじまる有名な詩句があるが、孔子もこれを味わったことであろう。

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