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山本七平bot @yamamoto7hei
①【周王朝の伝続「礼」に新しい秩序の理念を発見】中央政府であるはずの周王朝そのものが、前770年に首都長安を失って洛陽に東遷した以後は、中央政府としての機能を失ってしまっていた。 孔子が生まれたのはその250年後なのである。<『論語の読み方』
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②この周の体制は「祭政一致」である。 この言葉は、戦前の日本では、日本の特質としてしばしば強調されたので、今でも拒否反応を示す人もいるであろうが、周王朝のそれは、戦前の日本で言われていた「祭政一致」とはまったく違う。
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③それはある意味では、古代の様々な国家に表われた宗教連合体制の一種と考えてよい。 面白い事に、以後の文明の基礎をつくったのは、この体制なのである。 宗教連合体制(アンフィクチオニー)という言葉は、通常ギリシアのそれを指し、イスラエルもこの体制であったとする学者もいる。
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④いわば、都市国家は独立の存在なのだが、同時にこれが共同の聖所を持ち、輪番制でその維持管理に当たり、また共同でその祭儀や祝典を行なう――たとえば、オリンピアの競技――という形で、ゆるい連合体を形成している体制である。
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⑤イスラエルの場合は十二部族がそれぞれ半独立の自治体で、ただシケム(後にシロ)の聖所を一月交替で維持管理し、同時にシケム契約で、この契約神(エル・ベリース)との間に契約を結んで連合しているという体制である。
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⑥周の場合は、宗教連合体制といってもこれと違って、同族を諸国家に分封して諸侯として都市国家群を創建したとき、それぞれが祖先の宗廟で祭祀を行なうことによって、「祖先は一族である」ことを確認して結束を固め、これで統一国家として周の国家秩序を維持するという形をとった。
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⑦これが「祭政一致体制」であり、その基本が「礼」なのである。 いわば周王朝は全中国の総本家で、各国の君主はそれから分かれた準本家、宗廟の祭りに参加する者はその分家という形になっている。
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⑧だが、孔子の時代にはこの基本である国家宗教的なものへの信仰はすでに失われ、総本家中心の血縁型宗教連合体制ともいうべきものは、すでに形骸化していた。 孔子は、この伝統的体制を基礎にしようとした。
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⑨ただ、彼が果たして「周王朝復活」を計ったのか否かとなると、250年前にすでに失われたものを復活できると思うほどの空想家ではなかったと思われる。 というのは、孔子は一面では強い改革論者である。
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⑩だが、いかに「新しい」と思われることを頭の中で構成したとて、それを構成する素材は過去か同時代に求めねばならない。 この点ではマルクスでも同じである。 孔子も、いわば新しい秩序の理念を伝統に求めたということであろう。
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⑪【いかなる体制であれ、秩序は常に「形」を伴う】だが、はじめはだれもそれに耳を傾けず、もっばら、実力絶対という形になり、それは結局、下剋上の世界を現出して、日本の歴史でいえば足利末期のようになり、松永久秀的な人物も現われて、孔子を招聘しようとしている。
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⑫下剋上はまず、すぐ下からはじまる。 魯国では桓公からの三分家、すなわち三桓氏(季孫、叔孫、孟孫)が政治の実権を握り、孔子が十六歳のとき、この三氏が魯の軍隊を分配して、それぞれの私兵とし、魯君は完全なかいらいにされてしまった。
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⑬そして、若き孔子を憤慨させたのは、この三家が、周の天子が祖先の祭りのとき行なう舞楽を奏させ、その一人はさらに天子のみに許されている八列の舞をまわせた… こんなことが許されるんなら、どんなことでも許されてしまう、 これが孔子の憤慨の理由であろう。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑭いずれの国、いずれの時代、いずれの体制であれ、秩序は常に形を伴う。 いわばこれが「礼」である。 それは共産圏であれ同じであって、誰かがレーニン廟の上に立って私兵団の分列行進の閲兵を行ない、これを共産党政権が如何ともできないなら、その体制は完全に崩壊したと見てよい。
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⑮同じようにアメリカで勝手にだれかが大統領の宣誓をやったり、イギリスで国王の戴冠式と同じことがだれにでも平然と行なえるようになったら、すべての伝統的秩序は崩壊したと見てよい。 それは日本でも同じであろう。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑯当時の魯の君主昭公は即位の25年(前517年)に、三桓氏に対して「王様クーデター」を起こし、三家を一掃して失われた権力を回復しようとした。 しかし、そのクーデターは失敗し、隣国の斉に亡命した。 孔子もその後を追って斉に去ったが、この間の事情は少々わかりにくい。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑰孔子がクーデターに関係したわけではないし、また、特に君主昭公のお気に入りだったわけでもない。 秩序の最後の痕跡が消えたショックで「こんな国にいるものか」と去ったのかもしれない。 …同時に孔子は教育の力を信じていたから、夷の国へ行けば、夷も教化できるとも考えていたのであろう。

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