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山本七平bot @yamamoto7hei
①【「四十にして惑わず」政略家・孔子の誕生】この亡命の時…孔子は36歳である。 では「四十にして惑わず」とは何を意味しているのであろう。 これはよくわからないが、恐らくある種の「不退転の決意」をもって斉から帰国した時に語ったのではないかと思われる。<『論語の読み方』
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②孔子は斉国に来て、この下剋上という現象が何も魯国の特徴でなく斉国にもあり、おそらく全中国をおおう一般的傾向だと知ったらしい。 前記の絶望の言葉「道行われず」は、このときのものであったかもしれない。
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③と同時に、魯国が周公を先祖とする立派な国だと思っていた孔子が、少なくとも文化的な面では魯国は後進的で、中原の斉国の方がはるかに立派であることも認めざるを得なかった。 演奏を聞いて、三カ月肉の味がわからなかったというのは、この時のことである。
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④孔子はおそらくここで、この状態を改革するには口で道を説くだけではだめで、実力行使が必要であり、それによって魯国を、統治の面でも文化の面でも、立派な国にする以外に方法がないと決心したのであろう。 そして惑わずにその方向に進んだのが「四十にして惑わず」だと思われる。
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⑤ここで現実の政略家としての孔子が出現する。 まず第一に、三家の軍事力と経済力を打破しなければ何もできない。 それに、ちょうど都合のよい政治情勢が現われてきた。 下剋上が、三家をも下から揺るがしはじめたのである。
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⑥…昭公を追い出した三家の中の実力者の季氏にお家騒動が起こり、その執事の陽貨(陽虎)が実権を握り、実質的に魯国を支配する。 しかし、三家の総反撃を受けて陽貨は亡命せざるを得なくなり、この政権は三年で終わりをつげた。 この陽貨政権に対してとった孔子の態度は、少々わかりにくい。
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⑦…陽貨やその一味である公山不擾(こうざんふじょう)などが、何とかして孔子をひっばり出そうとし、孔子もこれに応ずる気があったことは確かだと思われる。 いわば孔子自身も、三家打破のため、まず彼らと手を結ぼうとしたのではないと思われる。
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⑧【孔子を聖人視しては、本質を見失う】【魯の季氏の家臣で権力家の陽貨が孔子に会見を求めたが、孔子は会いに行かなかった。 そこで、孔子に豚を贈った。 孔子はわざとその留守を窺って返礼に行ったが、あいにく途中で(陽貨に)ぶつかった。 陽貨が曰く、ちょうどよかった。】
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⑨【君に話したい事がある。 大切な宝を持ち腐れにして、国人が戸惑っているのを放っておくのは仁の道に叶っているかと聞かれたら、そうではないと答える外ないだろう。 本当は政治が好きでありながら、何度も出番を失うのは、知者のする事かと聞かれたら、そうではない、と答える外ないだろう】
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⑩【月日はどんどん過ぎ去る、歳月は人を待たない、という言葉をどうお考えか。 孔子曰く、もうよい。私も仕官しようか」(宮崎市定訳)】 …この宮崎市定氏の訳は、大変すんなりと内容がつかめるが、この章には様々な読み方と註解がある。
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⑪ここでは陽貨の自間自答とされ、一気に陽貨が言い捲っている感じだが、簡野道明・宇野哲人などの戦前の註は全てこの読み方を排して、実際に孔子と問答を交わした事にしている。 更に宇野哲人は…これは「小人に対する道」を示したもので、孔子は初めから陽貨に仕える意志はなかったとする。
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⑫すなわち…「陽貨に仕える」といったのではないとする。 いわば 「おっしゃることはわかりました。私は固(もと)より(だれか名君に)仕えようとしている者です」 であって、まったく陽貨のいうところの本意を諭(さと)らないかのようにしている、 と見るのである。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑬これは恐らく陽貨が坂乱を起こす前の事であろう。 従って「様子を見よう」という気が孔子にもあったであろうが「孔子は聖人だから、叛乱を起こした者などに仕えようとする筈がない」という前提に立っての解釈は無理であろう。 その時代には孔子は聖人でないし、彼は少しも聖人ぶってはいない。
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⑭さらにこの見方は、同じく叛乱を起こした、公山不擾(こうざんふじょう)…にまで仕えようとしたという記述と矛盾する。…そして孔子は公山不擾のもとへ行こうとした。 子路はこれを喜ばず、次のようにいった。 「何で公山氏などのところへ行く必要がありましょうか」 孔子は答えて言った。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑮「私を呼ぶ者が、ただ、理由なく呼ぶわけはない。 私を用いる者があれば、東周の体制を再興して見せる」 これならば陽貨に同じ態度をとって不思議ではあるまい。 そして、この孔子の政治的感覚は、政治史的に見れば、まことに正しいといわねばならない。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑯というのはヨーロッパでも、王は貴族を飛び越えて新興階級と手を結ぶ事によって統一的な王国を成立させた。 魯公に三桓氏を飛び越えて、彼らに叛乱を起こした新興階級と手を結ばせ、それによって「東周」を復興しようとする考え方は、政治的にはまことに合理的な考え方といわねばならない。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑰だが、これは成功しなかった。 …いずれにせよ陽貨や公山不擾が孔子を召しかかえようとした事は、彼を召しかかえれば人望が得られるという目算があったからであろう。 これは、孔子が既にそのような社会的評価を得ていた事を意味する。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑱…陽貨の新政権が没落すると、魯の定公が孔子…大臣の一人としたのも不思議なことではなかったかもしれぬ。 そして、孔子がそれらを予見して陽貨や公山不擾に…先を見越して仕えないという行き方をしたのなら、素晴らしい先見性といわねばならない。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑲ここで孔子は初めて、自分の目的を実現しうる地位を得たわけである。 これが「五十にして天命を知る」であろう。 孔子はこの地位を利用し、三家を打破して魯国を強固な君主制として、周公の礼に基づく模範国家をつくろうとしたものと思われる。 そしてそれは確かに好機であった。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑳…新興勢力と手を結べば三家が打倒できるということである。 だが、これは結局失敗した。 見方によっては、孔子のやり方があまりに紳士的・道義的で、権力的ではなかったためともいえるであろう。 …失意の孔子は魯国を後にして十四年の流浪の旅に出るのである。

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