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山本七平bot @yamamoto7hei
①【何度も起こった孔子暗殺未遂事件】…孔子は行く先々で一応は歓迎された。 この時代の孔子はすでに大学者としての評価が確立しているから、それに敬意を表し、同時にその人柄に接し、また、教えを受けたいという者がいても不思議ではない。 しかし、同時に警戒されても当然であった。
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③そして実力者は、一応は君主に敬意を表するから、君主が歓迎すれば一応は歓迎しても、裏では、常に警戒の目を光らせていたであろう。 したがって、この種の事件はしばしば起こったらしい。
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④【危機に孔子はどう対応したか――孔子の自負と情熱】ここで面白いのは孔子の言葉である。 平生の孔子は極めて謙虚で大言壮語せず、絶対に自分が「道の保持者」だというような顔はしていない。
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⑤しかし、生死の…分かれめに立つとこの言葉が出てくるのは、心底深くこの自信を秘めていたのであろう。 そしてまた、これが警戒される原因だったのかもしれない。 おそらくこれだけでなく、孔子への陰謀は様々な国でめぐらされていたものと思われる。
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⑥しかし、孔子の一行が本当に危地に陥ったのは、目的地である楚国に近づいた時である。 その地では、楚と呉が戦っており、楚の同盟国の陳国は戦禍のため食糧がなくなり、そのため孔子の一行も大変に苦しんだ。 …子路の「君子でも困窮するのか」という質問はおもしろい。
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⑦確かに君子などというと、何ごとにも困らない人間のように誤解しがちである。 だが、君子も困窮することは同じだが、その際にどうするかが小人とは違うということであろう。 君子はどのようなことがあっても乱れない。
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⑧このような苦難を経て、やっと孔子の一行は楚国に入った。 葉公との間答は、このときのものであろう。 すなわち、 「葉公が子路に、孔子とはどういう人なのかたずねた。子路は答えられなかった。」
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⑨「そこで、孔子は言った。 『なんで言わないのか、こう言えばいい。 あの人のあり方は、情熱的になると食事を忘れ、学を楽しむと心配事はすべて忘れ、老いが迫っているのも気づかずにいる』と」 この絶えざる情熱は、静かなる孔子の一面であったろう。
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⑩だが、楚国の昭王は陣中で病死したので孔子は会うことができず、ついにここでまた中原に戻ることになり、一応、衛国に落ち着いた。 孔子はここで、政治活動を諦めたものと思われる。
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⑪彼が目指した体制をその存命中に作りあげることは不可能と思い、それを後代に託して、そのため弟子を養成し、さらに人びとの教育に専念すべきだと考えたのであろう。 また、年老いてゆく弟子のことも心配だったと思われる。 そこへ魯国から孔子を招く使者が来たので、彼は魯国にもどった。
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⑫実に十四年ぶり、孔子69歳のときのことであった。 「孔子は陳にいるとき言った。帰ろう、帰ろう、魯国にいる私の門人たちは志が大きくてやる気があり、美しい錦を織りあげながら、裁ち方を知らないのだから」 …これは当時の孔子の心境を物語っているであろう。
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①【高弟顔淵の死、最愛の弟子子路の死】そのようにして孔子は、魯国の曲阜の学園にもどった。 そして、教育と古典の編纂に専念したと思われる。 おそらくこれが、孔子個人にとってみれば、もっとも楽しいことであっただろうし、成果も上がったのであろう。<『論語の読み方』
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②…といってもその晩年も必ずしも幸福であったとはいえない。帰ったその年…に長子の孔鯉が死に、その翌々年、彼が最も信頼し期待していた高弟顔淵が死んだ。…その時の孔子の悲歎ぶりは「顔淵死す。子曰く、ああ、天、予れを喪(ほろぼ)すか。天、予れを喪すか」…などに表われているであろう。
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③…だが、不幸はそれで終わらなかった。 孔子が最も愛した弟子は恐らく子路である。 孔子と子路の間答は『論語』の中で最も生き生きしており、本当に孔子先生に惚れ込んで、先生の為なら命もいらないといった気持ち、またそれだけに少々甘えて何でもズケズケいう一本気で素朴なところ、(続
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④続>おそらく孔子の弟子の中で、だれでもが親しみを感じるのが子路であろう。 彼は孔子より九歳若いだけの古顔であった。 そして、孔子の推挙で衛国の大夫孔悝(こうかい)に仕えていた。
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⑤ところが追放されていた太子蒯聵(かいがい)が戻ってきて孔悝を脅迫して衛の出公を追い出し、代わりに自らが即位しようとした。 そこへ駆けつけた子路は叛軍の為に殺された。 孔子はこの政変を聞くと、即座に 「柴(子羔〔しこう〕)や、それ帰らん。由(子路)や死なん」 と言った。
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⑥直情径行の彼が、生きて帰らないことを知っていた。 そして、 「子路の屍(しかばね)が醢〔ししびしお〕(塩漬の刑)にされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後、塩漬は一切食膳に上さなかった」 ということである。
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⑦【「古典」とは、常に人の発想を新たにするもの】73歳の孔子には、これはショックであったろう。 その翌年…74歳で世を去った。 しかし、曲阜の孔子の学園はつづいた。 その弟子と孫弟子とが編纂したのが『論語』であり…孔子学園における師と弟子との対話集・討論集だといえる。
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⑧そしてこの『論語」は中国の長い歴史の間に延々と読み継がれ、また、中国文化圏といえる世界で読み継がれた。 日本もその一国である。 この対話・討論集の歴史の長さと影響力は、西欧におけるプラトンの『対話篇』以上だといえる。
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⑨このような古典は、それ自体で完結して終わっているというより、むしろ、各人に知的興奮を起こさせ、いわば「温故知新」で常に人の発想を新たにする力を持っている。 聖書でもタルムードでもプラトンでもその要素が強いが『論語』も実にそれが強い。
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⑩そして、それなるがゆえに生きつづけてきたわけだが、同時に、その刺戟によって、その時代時代に応じたさまざまな解釈を生み出したことも事実である。 そして、日本人は日本人ならではの読み方をしてきた。
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⑪人によってはそれを「誤読史」というが、しかし、ユダヤ人から見ればキリスト教徒の聖書の読み方もまた「誤読史」であろう。 そして、この「誤読史」といわれるものは、それぞれの伝統に基づいて孔子を読み、かつその伝統の中に生かして新しい文化を形成してきた歴史なのである。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑫現代にもそれが行なわれてよい。 孔子自身が、おそらぐはその時代の古典に新しい読み方をした人なのだから――。 だがその際に、一つの注意が必要であろう。
山本七平bot @yamamoto7hei
⑬というのも、真の教師であった孔子は、常に弟子の性格や資質に応じて自分の考え方を述べているので、 決して相手の人格や特性を無視した「一般理論」を述べているのではない ということである。 従って「論語」に登場する主な弟子達がどのような人々であったかを頭に入れておく必要がある。
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⑭これを無視すると、孔子は実に矛盾したことを平然と口にしているようにも見えるからである。 孔子の死後もその学園はつづき、巨大になった。 「孔子の弟子三千人」といわれるのは、むしろその時代のことであろう。
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