『はつ恋』あるいはあのばかのこと

川熊即興
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◯(仮名) @kamerimaru

あのばかが駆けてゆく。海の上を、駆逐艦もかくやという速足で。みな底から這い上がる潜水艦どもを蹴散らし、魚雷を飛び越え、とうとう金に光る親玉を一撃で吹きとばして、あの人のもとへとまっすぐに。青空には月も星もなく、あのばかが大人しい昼間のはずだけれど、今は確かに彼女の時間だった。

2014-03-15 14:25:30
◯(仮名) @kamerimaru

そして私は、たしかに恋の終わりを知った。

2014-03-15 14:26:25
◯(仮名) @kamerimaru

はじめて会ったとき、あのばかは細かい傷だらけで、短く切った髪の毛には土や木の葉やよくわからないものが絡みついていて、服装までそれっぽかったものだから、てっきり男の子かと信じ込んだものだ。それがよくなかった。私にとってあのばかは、まるっきり見たことがない人種だったから。野蛮人!

2014-03-15 14:29:37
◯(仮名) @kamerimaru

避暑地の静かな夜には、あんまりにうるさくて、雑で、ばかで、似つかわしくない相手だった。だから、あのばかがいきなり話しかけてきたときは、心底驚いたものだ。動物が喋ったくらいの驚きかただったと思う。きみ、なにしてるの? って、そう聞きたいのはこちらのほう! ほんとにあのばかときたら。

2014-03-15 14:36:10
◯(仮名) @kamerimaru

私はそのとき、ちょうど、お父さまとご学友のみなさんが話しているのに飽きて、煙草のけむりから逃げ出して、テラスでぼんやりしていた。あのばかは、退屈してるの? とか聞いてきて、たしか私はこう答えた。「ええ、そうですわ」

2014-03-15 14:38:45
◯(仮名) @kamerimaru

いきなり手を掴まれて、悲鳴をあげなかったのはなんでかといまも思う。あのばかがきっと、あんまりに騒がしかったからだ。

2014-03-15 14:39:27
◯(仮名) @kamerimaru

「いこ! 素敵な場所があるんだ」「ちょ、ちょっとお待ちなさい! どこへいくんですの!?」「山のてっぺん! だいじょうぶ、すぐそこだよ!」「そんなところに何があるんです!」「たからもの!」

2014-03-15 14:41:11
◯(仮名) @kamerimaru

山道は真っ暗で、明るいところになれた目には何も見えなくて、あのばかはちょっと目をつむってればいいとか言ってくれて。冗談じゃないとおもったけれど。でももう私は怖くて、ぎゅっと目をつむって、あのばかに引っ張っていかれて。ほんとうに変わりません。

2014-03-15 14:43:24
◯(仮名) @kamerimaru

もういいよと言われて、目を開けてみたらやはり真っ暗なまま。そしたらあのばか、よりにもよって私を地面に引き倒して、真上を向かせて。空を見なよ、きれいだよ! って。ええ。すごかった。星空。満天の星空です。あの別荘に何年も通っていたけれど、みたこともないほどの。すごいでしょう。すごい。

2014-03-15 14:45:18
◯(仮名) @kamerimaru

服を泥だらけにして帰って、たいそう怒られたのがその夜の話。あのばかが女の子だと知って驚いて、そして不思議な気分になったのが翌日の話。あのばかが女の子だったことに、悩み始めたのが何年も経ってから。再会してそれはそれは驚いたのが、ついこのあいだの話。

2014-03-15 14:46:46
◯(仮名) @kamerimaru

あのばかが駆けていく。たからものにめがけて。ああもう。でもわたしもあの日とは違う。引っ張られて行くだけではなくて、足りないことを知るばかりでなくて。あのばかと肩を並べて、あのばかがどういうやつか知っている。「まったく、世話の焼ける人ですこと!」私は瑞雲を構えた。色々の始末のため。

2014-03-15 14:50:16