屋代聡の歴史徒然草【天皇家の由来ー桓武天皇はなぜ長岡京に遷都したか】

屋代聡さん@yashirosatoru の歴史徒然草【天皇家の由来ー桓武天皇はなぜ長岡京に遷都したか】をまとめました「”純粋な日本人”など虚構です。それは天皇家とて同じということを一度考えてみてください」
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屋代 聡 @yashirosatoru

【天皇家の由来ー桓武天皇はなぜ長岡京に遷都したか】

2014-03-27 18:13:33
屋代 聡 @yashirosatoru

桓武天皇が784年に平城京から長岡京に遷都したこと、そして794年に平安京に遷都したことは、歴史上の「常識」として皆さんも良くご存じだと思います。

2014-03-27 18:15:49
屋代 聡 @yashirosatoru

しかしこの桓武天皇について多くの方はあまり知らない、特に即位前つまり前半生については全くご存じないでしょう。

2014-03-27 18:16:59
屋代 聡 @yashirosatoru

彼の父、光仁は天智天皇の孫にあたりますが、周知のように天武即位後、天智系の皇族は徹底して皇位から遠ざけられてきました。そして奈良時代とは、端的に言って、天武直系の皇族が傍系の皇族(長屋王とかね)・天皇を迫害、殺害する時期でありました。

2014-03-27 18:18:25
屋代 聡 @yashirosatoru

しかしその骨肉の争いが結局天武系の皇族の全滅、道鏡の台頭を招いてしまったため、天智の孫で存命であった光仁に、新帝としての白羽の矢が立ったのです。

2014-03-27 18:19:35
屋代 聡 @yashirosatoru

それまで光仁はいつも身の危険を感じて隠棲のような暮らしをしておりました。 ただ光仁の妃は井上内親王、天武系の称徳天皇の異腹姉妹です。両者の間に生まれている他戸を皇太子とし、彼がゆくゆく天皇となれば、女系を通じて、天武の血が残ります。

2014-03-27 18:22:27
屋代 聡 @yashirosatoru

それゆえに光仁天皇の即位は大きな混乱を生まずに成立しました。この時点で桓武は皇太子ではありません。

2014-03-27 18:23:07
屋代 聡 @yashirosatoru

しかし光仁天皇が即位して2年後に井上内親王と他戸は光仁を呪詛したとして殺害され、桓武が皇太子となりました。 かような時代ですから、先述のように光仁は天武王朝末期、皇位継承の意図がないことを装い政治の表舞台には登場しません。そして父と過ごした桓武の幼少時代も詳細は不明です。

2014-03-27 18:25:39
屋代 聡 @yashirosatoru

しかし『続日本紀』によれば、桓武の母は高野新笠。白村江の戦の後、日本に亡命した百済王の血統です。その祖先は、百済武寧王の子、純陀王子と伝えられています。おそらく幼い桓武はこの母の保護の下で、百済の亡命王族・貴族らと親しく交わりながら暮らしたと考えられます。

2014-03-27 18:26:46
屋代 聡 @yashirosatoru

その事は、桓武治世期に多くの渡来系人物の活躍からも看取できます。百済王明信と百済王俊哲という姉弟がおりますが、このうち、前者は桓武後宮の尚侍、後者は陸奥鎮守将軍に抜擢されています(すごいですね)。

2014-03-27 18:28:12
屋代 聡 @yashirosatoru

実は桓武には史料上わかるだけでも即位後、23人の妻がいたのですが、即位前にも妻を当然めとっており、おそらくその一人が明信なのです。

2014-03-27 18:29:17
屋代 聡 @yashirosatoru

さて彼ら、百済王氏の本拠地はどこか。それが難波百済郡と河内交野郡です。そして交野の北隣こそ乙訓長岡なのです。さらにこの乙訓は桓武母、高野新笠の故郷なのです。

2014-03-27 18:30:44
屋代 聡 @yashirosatoru

つまり若き桓武は母の高野と共に乙訓長岡に育ち、しばしば南隣の交野郡に通って妻子をもうけていたと考えられるのです。 長岡京への遷都は、こうした桓武の出自、生い立ちと切り離して考えることは到底できません。

2014-03-27 18:31:58
屋代 聡 @yashirosatoru

桓武は百済救援のために白村江の戦をなした天智の曾孫であり、一方、百済王の末裔でもあり、そのことを強く意識していたと思われます。

2014-03-27 18:33:52
屋代 聡 @yashirosatoru

例えば、天皇位の象徴である伝国璽の1つ、”大刀契”は百済王氏の王章を奉献したものと当時から理解されており、おそらく桓武がこれを皇位の証として強調したと思われます。

2014-03-27 18:34:50
屋代 聡 @yashirosatoru

さらに桓武天皇が、785年11月、「郊天祭祀」を行ったことが注目されます。これは、天帝を祀るかがり火をたき、その煙がまっすぐに上がるほど天によって認められていることを意味する中国式の儀礼、易姓革命のそれです。

2014-03-27 18:35:56
屋代 聡 @yashirosatoru

この時、桓武天皇は天に捧げる祭文の最後で、父光仁を「神に配し、『主』となす」と述べており、光仁を新王朝の創始者になぞらえています。またその直後、息子の平城を立太子していることから、桓武天皇にとって、この祭祀は自己の皇統を正当化するための儀礼に位置付けられます。

2014-03-27 18:37:56
屋代 聡 @yashirosatoru

では、この光仁・桓武王朝の確立を祈念する祭礼はどこでなされたのでしょうか。 それがまさしく長岡京郊外の交野。 母の出自である百済王族ゆかりの地、家族と過ごした地、交野であったのです。

2014-03-27 18:40:52
屋代 聡 @yashirosatoru

かように単に「続日本紀」だけでなく、母親の出身地と自己の育った環境、「妻」の出自、周囲における任官、大刀契の登場と強調、郊天祭祀の実施とその場所、いずれを考えても、桓武天皇が朝鮮半島由来の血をひいていたことは当時、自他共に認めており、またそのことを帝自身が強調しているのです。

2014-03-27 18:43:25
屋代 聡 @yashirosatoru

以下のHPにあるように、今上天皇が「桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であること」「武寧王は日本との関係が深く、以後日本に五経博士が代々招へいされたこと」「武寧王の子,聖明王は日本に仏教を伝えたこと」を強調するのは、当然のことなのです。http://t.co/ODdEoI2SPq

2014-03-27 18:45:18
屋代 聡 @yashirosatoru

わかったかい、ネトウヨ諸君?^^

2014-03-27 18:46:45
屋代 聡 @yashirosatoru

以上です。 おかしなネトウヨに絡まれたら、教えてあげてください。

2014-03-27 18:47:17