別にパラフレーズするまでもない論文を読めばそう書いてある程度のことかもしれないけど、ふっと言葉が出てきたのでメモ。体育館はもうすこし熟れてきてからもう一度見てみたいと思いました。連投失礼、
2014-07-08 12:02:06単にバラバラではなく、スケールによって成り立ちが変わるけど、それが緩やかに繋がっている仮設的な全体性。おそらくバラバラではなくてある主体として「まとも」であるということのありかたはいろいろあるはずだけれども、でもそのことを意識的に、明示的に試す、というのは希有なことでしょう。
2014-07-08 12:01:49そして論文はさらに、荻窪の街としての成り立ちの重層性、スケールを手がかりとして見えてくる重層性に共振するような重層性に着眼している。そうだとすると同時に、主体像としての重層性ってどういうものだろうというやや抽象的な話も気になるところ。
2014-07-08 12:01:39これは遡って考えると、つまり知性としての建築術ってものが暗黙に前提している、バラバラの存在でなくてある一貫性を持った主体、というのとは少し違うような主体像の知性を我々考えているんだってことになるだろう。だから全体性を崩せば良いというわけでもなく、和らげれば良いというものでもない。
2014-07-08 12:01:28モノリシックな全体性って言えば良いのか、自律的かつ階層的秩序の整ったそういう全体性みたいなものは、実際に建築が建つその場の現実に対してかなり抑圧的で、現実のバラバラさとそのなかに生きている仮説的な全体性を殺してしまうということがある。
2014-07-08 12:01:17ともあれ、「全体性を作るものを普通、構成と呼ぶ。建築の場合で言えば、それは、その建築全体の組織構成の、神の目による捉え方つまり「抽象」のことだ」。と青木さんが『新建築』の今月号の論文で書かれているのはそのことでしょう。そしてだけど、その全体ってものの一貫性のあり方が問われている。
2014-07-08 12:01:09それをそうするのは人間が単にバラバラの存在ではなくて、ある全体としてあるべきだし実際そう振る舞うことが可能だ、という(古典的な)信念による。あんまりそんなこと考えないかもしれないけど、これは建築術がひとつの知性であるという根本的な話。こういう話は流行らないけど基本です。
2014-07-08 12:00:59すごく素朴な一般論として、あれこれの用途と与条件があったときに、逐次対応的にバラバラの解決を集積するのではなくて、それをまとめてひとつの全体として建物を組み立てようとする行為として、建築設計というものがある。
2014-07-08 12:00:48もしこの境界が直線だったり、不透明な壁だったりしたら、こういう微妙な反転は起こらない。明らかな反転が起こって、二つの世界が断絶する。そうすると、あれだけのヴォリュームを地下に埋め込んだ事の違和感が際立ってしまう。
2014-07-08 07:12:09で、この楕円形の境界を通過するとき、うまく表現できないんだけど、0.5回くらいの反転が起こるんですね。そのおかげで、地上の日常風景と、地下の異世界という両極の世界が、なんの劇的な変化も経ずに繋がって、自然に行き来できるようになっている。
2014-07-08 07:11:57屋上緑化や未舗装の広場の楕円形もあいまって、建物が、地面からせり上がって来たものの様にも見えてくる。それは地のようでもあり、図のようでもあり、その中間のようでもある。そして、その隙間が地下世界の入口になっていて、するすると入っていける。
2014-07-08 07:11:47それが、実際は直方体のヴォリュームである体育室とプールが、楕円形にラッピングされただけで、周囲の建物とは異なる存在になる。すると、菱形の敷地全体が浮かび上がってくる。そして、体育館の建物自体は敷地の側に溶け込んでいく。建物も含めた敷地全体が広場のようになる。
2014-07-08 07:11:38大宮前体育館の楕円形の効果についてもう一つ考え付いたんですが、あの敷地に直方体のヴォリュームを置いたとしたら、それは大きさの違いこそあれ、周囲の建物と同列の存在になったのではないか。だとすると、建物と建物の間の隙間が広場、という感じになる。建物はあくまでも地に置かれた図。
2014-07-08 07:11:20青木さんの論文読んだ。行って感じた捉えどころの無さが何なのかをさらに考えるためにも一度は利用してみたいですね大宮前体育館!
2014-07-07 16:49:27@junaoki22 何を文脈とするかの判断にも、その文脈をどう建築化するかの操作にも幅がある。そう考えると多くの建築は文脈に依存する。しかしなぜか青木君の建物は文脈から解放されているように見えるんですね。非文脈的なんだけど社会的。新しい「世界」とセットで提示されるからだろうな。
2014-07-07 13:33:48>RT ただ、大宮前は『「荻窪」からまなぶこと』ではないんですよね。ヴェンチューリは「ラスベガスから」何かを学び学んだことを建築へと変形・変換した。でも大宮前はそういう文脈主義とは違うと思う。
2014-07-07 09:42:032014/7/6の読売新聞書評欄に、『日本の都市に学ぶこと』の書評が載りました。『新建築』7月号で、「大宮前体育館」に併せて長めのエッセイを書きましたが、それと重なる内容がでてくる本です。 fb.me/31u6LYd2f
2014-07-07 09:33:48@yoshiakihanada 何か書くならタイトルは「「荻窪」に埋め込まれたもうひとつの世界への非常階段」くらいか。青木君が書いたのは主に「荻窪」について。ではなぜ「もうひとつの世界」ではなく「荻窪」を作ると結果的に「もうひとつの世界」とそこへの「非常階段」が実現したのか。
2014-07-07 09:18:20「異世界へのトンネルがすぐそこにある」という感じを伝える写真がなかったのは残念。ま、撮るの難しいんでしょうけど。外構のざくっとしたディテールなども含め、あの建物の内外に漂う不思議な空気を伝える写真集希望。これからの市民生活の目標像を伝えるものにもなるのではないか。
2014-07-07 02:24:02「現実を生け捕りにするには」の丁寧な説明は言ってしまえば「文脈的」で代官山ヒルサイドテラスの「荻窪」版。僕には大宮前の本質は「『1Q84』的(or「青森」的)」な現実のすぐ横に非日常へのトンネルを作ったことに思えるが、そういうのは青木君にしてみればわかりやすすぎる説明なんだろう。
2014-07-07 02:12:34大宮前で僕が一番感心したのは青木君のキーワード「はらっぱ」という言葉が「市民建築バージョン」として「建築的に」具体化されていたことだ。余りにもわかりやすいこの言葉をこれほど詳細にかつ豊かに「建築の言葉」によって語ることができるとは。現在を肯定する設計方法の可能性を示した記念碑だ。
2014-07-07 02:01:15