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永井均 @hitoshinagai1
坐る瞑想(坐禅)と歩く瞑想(経行)の他には、せいぜい掃除、皿洗いぐらいしか瞑想になることが知られてないが、実は読書瞑想も勉強瞑想も論文執筆瞑想も会話瞑想もまったく問題なくでき、これらはむしろ瞑想にふさわしいとさえいえる。    
永井均 @hitoshinagai1
瞑想は止(サマタ)瞑想と観(ヴィパッサナー)瞑想に分かれるが、瞑想と聞いて多くの人が思い浮かべるのは前者の止瞑想である。こちらだけを切り離して行うなら、坐禅や経行や掃除や皿洗いよりも、むしろそれ自体においてもっと集中が要求される短距離走や外科手術のようなもののほうが相応しいはずだ
永井均 @hitoshinagai1
しかし、そうではない。止瞑想といえども心が逸れがちな状態において逸れずに留まり、「逸れたら引き戻す」というプロセスが内在していないと効果が薄い。坐禅や経行はそれを意図して設計されている。
永井均 @hitoshinagai1
逸れたら引き戻すプロセスにおいて、戻る方ではなくむしろ逸れる方に着目し、逸れという出来事の生起と逸れが向かった対象の種類をいちいち確認していけばそれはもう観瞑想になる。これは短距離走や外科手術では決してやれない。
永井均 @hitoshinagai1
 しかし、たとえば読書でこれをするのは容易である。誰でも本を読んでいて本の内容から心が逸れる瞬間があるだろう。その瞬間を鋭く捉えて、例えば「逸れ」といったサティを入れる(別にそんなことをしなくてもただ逸れたことに気づいてそれを確認すればそれでもよい)。
永井均 @hitoshinagai1
そのときまた、本のどの箇所のどの文言から何に向かって逸れていったかを瞬間的に捉える。もちろん突如として全く関係ないことに意識が飛ぶこともあるし、内容に対する批判的コメントが思い浮かんだりすることもあるし、その他さまざまな場合があるが、それらすべてをを取り逃がさずに、
永井均 @hitoshinagai1
(そして何よりも重要なことはその逸れに自分が完全に乗ってしまって実際に心が逸れてしまうことなしに)その逸れの生起を対象化して、その生起とその種類とをはっきりと観る(この「プロセスをはっきりと観る」ことがすなわち「ヴィパッサナー」の意味である)。これが本来の修行としての瞑想の本質
永井均 @hitoshinagai1
はっきりと観た後でなら、自覚的に逸れることは一向にかまわない。こうして一切の無自覚な「放逸」をつぶしていくことが、仏陀が最初から最後まで(仏陀の最後の言葉である「…怠らずに励め」もこれを言っている)ただそれだけを説き続けた(のに日本仏教に全く伝わらなかった!)「不放逸」の教えだ。
永井均 @hitoshinagai1
不放逸でさえあれば、「一切皆苦」と言われる際のあのあらゆる「苦」から解放されるというのである(そして、驚くべきことに、これはたぶん本当である)。
永井均 @hitoshinagai1
読書瞑想をすると、読書と瞑想修行がいっぺんにできて効率的だ。しかし、読書でなくても、ほぼ何をしていてもできる。終日これを絶やさなければ、解脱してしまうそうである。(私自身は解脱してしまわないために、ときに意識的・自覚的に放逸状態になることを心がけている。)
永井均 @hitoshinagai1
たとえば中村元訳『真理のことば』(岩波文庫13頁)で、「つとめ励むのは不死の境地である。怠りなまけるのは死の境涯である。…」と訳されている「つとめ励む」が直訳すれば「不放逸」で「怠りなまける」が直訳すれば「放逸」。昔の訳ではそう直訳されており、その方が正確でしかも実は分かり易い。
永井均 @hitoshinagai1
逆にいえば、不放逸状態にはいかなる苦もなくただ平安だけが支配するということになる。それが本来の自然な状態だからだ。なぜ放逸が生じるかといえば(私見によれば)言語が制御を離れて自動的にはたらくからで、赤ちゃんや動物にはこれがない。
永井均 @hitoshinagai1
言語をもつ人間の大人は、この(「本来の自然な」であるはずの)状態に戻るために、意識的な(つまり多少ともテクニカルな)方法を必要とするわけである。
永井均 @hitoshinagai1
そうすると、「放逸」がすなわち「原罪」でもあることになる。
永井均 @hitoshinagai1
不放逸状態に気づく(サティを入れる)一瞬に、十字架のキリストが死んでそして生き返る。放逸への気づきは、キリストの死と復活を、瞬間において反復し続けるわけだ。
永井均 @hitoshinagai1
放逸への気づきは、キリストの死と復活を、瞬間において反復し続けるわけだ。「不放逸は不死の境地、放逸は死の境涯。」(法句経(ダンマパダ)21)
永井均 @hitoshinagai1
私がいちばん嫌いな哲学問題は「他我問題」。他人の感覚は感じられない、だから他人はもしかしたらゾンビかもしれない、とか。そこから「独我論」が帰結するのだ、とかいう話を聞く(読む)と、その眼も眩むほどの浅薄さに心底打ちのめされる。
永井均 @hitoshinagai1
外からは、革マル派が中核派を、臨済宗が曹洞宗を嫌うようなものに見えるかもしれないが。しかし、ここに根本的な問いの断絶を見なければ、絶対に何も見えない。
永井均 @hitoshinagai1
要するに、「実存‐本質」の対比と「質料‐形相」の対比との混同。前者を後者に読み替えてしまう誤り。もちろん「他我問題」もそうだが、あらゆる古来の哲学的錯誤がこれに尽きるかも…。
永井均 @hitoshinagai1
「実存‐本質」の問題を「質料‐形相」の問題に落としてしまうのは、哲学では、他我問題に限らず、いわゆる認識論的問題の通弊だろうが、ちょっと前に書いたヴィパッサナー瞑想でも、ナーマとルーパが点滅している系のお話はまさにそれだろう。
永井均 @hitoshinagai1
この点では、大乗仏教の禅の方が哲学的に明らかな優位にあると思う。(とりわけやはり道元。彼は「実存‐本質」連関こそが本当の問題であることを決して見失わない。)
永井均 @hitoshinagai1
このところ採点瞑想中。(普通の読書より修行になる。)

「不放逸」についてのコメントをいくつか

上野 康弘 @hakai_namagusa
お世話になった恩師は仰ってた。「不放逸」が「~したらあかん」という単なる禁止ではなくって、「~しようぜ、~しましょ」という積極的な奨励促進の如きニュアンスとして考えないとね、と。そう確か「怠ることなく励みなさい」って一文を指してそう仰ってた。ブッダの最期のことばかな。
o @ooo157
ダンマパダ21は https://t.co/JQI2DK1o1L ウダーナ・ヴァルガ4-1と共通でhttps://t.co/77ogWyMYMY 両者とも漢訳は不放逸を戒の問題として扱ってます。ウダーナ・ヴァルガ4-1に相当する出曜経もそう解釈しているように見えます。
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コメント

kakuyu @southmtmonk 2014年4月7日
「永井均先生のヴィパッサナー瞑想についてのつぶやき」を更新しました。@ooo157 さん @hakai_namagusa さんのtweetを追加しました。
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