「出る杭」を打つ日本民衆史と現代社会

社会の同調圧力が、なされるべき変革を大きく妨げている現代日本ですが、昔は一体どうだったのでしょう?鎌倉時代から現代にわたる興味深い考察です。
58
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

真面目な話。民衆は権力者に対して「死ね!」とか悪態をつくことぐらいしか許されていないわけです。その悪態をつくような個人的で直接の暴力にも繋がらない、ささやかな反抗の膨大な積み重なりが、数十万人のデモになってようやく政治的な力を得る。

2014-04-13 00:40:23
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

そこで、民衆の中から、同じ民衆を黙らせようとする人々が出てくる。通常はそうした連中は、民衆に対する宣撫工作を仰せつかったエージェントなわけですが、この日本という国は、一銭も受け取っていないのにその宣撫工作を自ら買って出る人々がいる。

2014-04-13 00:43:11
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

こうした相互監視社会、民衆同士が自主的に足を引っ張り合い、お上が叩く前に「出る杭」を打ってくれる「総すくみ」社会を作ったのが、江戸幕藩体制です。

2014-04-13 00:45:12
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

我々「反安倍」は、当然ながら安倍晋三に強い関心を持っている。ストーカーのように安倍の動向をウォッチしています。では「反・反安倍」の連中は、なぜ我々に強い関心を持ち、ストーカーのようにウォッチしているのか?彼らは何のためにそれをやっているのか?

2014-04-13 01:01:12
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

一銭の内閣官房機密費も注ぎ込まず、自主的に手弁当でこういうことをやってくれる国家の親衛隊が、ネット上には生息しています。彼らこそ、日本の権力による民衆支配の最大の武器です。

2014-04-13 01:03:44
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

一つには、彼らは押し並べてヒマなのです。人間、ヒマだとろくなことをしないと言いますが、ヒマな時にやってしまうことこそ、その人間の本質を表しています。 RT @Tomicajpn 色んなアンチの方に聞いてみましたが、謎です。何か理念があるのか、本気で知りたかったので、丁寧に尋ねたの

2014-04-13 01:08:30
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

つまり彼らはヒマでボケッとしていると、自動的に権力に楯突く人間、体制の安寧を乱す人間を補足、監視し、攻撃してしまうわけです。人間の本質として長いものに巻かれる、権力に従属するものを持っています。この恐るべき心性を育てたのが徳川幕府です。@Tomicajpn

2014-04-13 01:10:30
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

抑圧が存在し、その群れから出て、抑圧から解放されたかのように振る舞う人間に、他の者たちは嫉妬をし、足を引っ張ります。これが「出る杭を叩く」メンタリティです。この国の権力者が民衆を支配するために持ち得た最大の武器です。

2014-04-13 03:45:27
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

徳川幕府は実に260年間も続きました。近世において、これだけの長期間、一つの政体が持続したことは、世界的にも稀なことです。その基盤になったのが、こうした民衆のセルフ・コントロールでした。

2014-04-13 03:50:03
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

江戸時代も最初の100年間ほどは、まだ戦国の気風が残っていたと言います。戦国時代までの日本人は、現在とは全く違う、スケールの大きなワイルドな国民性を持っていたのです。それを100年かけてスポイルしたのが徳川幕藩体制でした。

2014-04-13 03:51:38
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

江戸幕府の始まりから80年が過ぎた元禄時代には、民衆及び武士階級のスポイルはようやく完成段階にありました。この時に起きた「忠臣蔵」の赤穂事件が民衆に非常にもてはやされたのは、武士もサラリーマン化する徳川の世の中で、未だスポイルされていない、戦う人々の姿を見せたからです。

2014-04-13 03:55:26
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

江戸時代初期にまだ残っていた、スケールの大きなワイルドな戦国時代の日本人の気風を端的に示しているのが、最近では漫画にもなって人気の、宮本武蔵のストーリーでしょうね。江戸時代の初期はああした雰囲気でした。今時代劇で見る江戸時代とはずいぶん違います。

2014-04-13 03:59:23
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

赤穂事件前はサラリーマン的な武士団であった赤穂浪士たちに軍事指導を施したのは、堀部安兵衛でした。安兵衛は「高田馬場の決闘」で仇討ちへの加勢経験がありました。武士団が互いのメンツをかけて抗争を繰り返していた江戸時代初期の生き残り的存在だったのです。

2014-04-13 04:03:12
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

もっとも、その戦国以前の武士の気風というのは、決して美化されるようなものではありません。例えば鎌倉時代まで遡る源義経のエピソード。義経が郎党と奥州に旅立つ時、京都のとある峠にさしかかりました。そこに別の武士団が通りかかり、その馬が水たまりの水を跳ね上げて義経の衣を汚しました。

2014-04-13 04:07:41
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

怒った義経は、その相手の武士団の9人を切り捨て、頭領の武士の耳と鼻をそいで追い払いました。そして「これは奥州に旅立つにあたっての吉兆だ」と喜んだといいます。めちゃくちゃです。その場所には今は蹴上という地名がつけられています。これが良くも悪くも戦国の武士の気風でした。

2014-04-13 04:09:36
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

戦国時代まで続いたこうした荒々しいギャングとしての武士の気風を幕藩体制に押し込めて、一生懸命スポイルし、ホワイトカラーのサラリーマン的存在に手なずけていったのが、江戸時代でした。そして武士を統率しつつ、民衆にはさらに厳しい管理体制を敷いたのです。

2014-04-13 04:11:59
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

そんな江戸時代にあっても、民衆は一揆という最後の抵抗手段を手放さず、頻繁に国家権力に対して異議申し立てを行いました。権力者が統率のために行き渡らせた相互監視・相互抑圧のメンタリティを逆に利用して、一揆の団結をはかりました。コミュニティ内の同調圧力を利用したのです。

2014-04-13 04:15:57
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

それが「立百姓」と「寝百姓」です。「立百姓」とは一揆に立ち上がった者。「寝百姓」は一揆に合流しない者や脱落した者のことです。「立百姓」は「寝百姓」にムラ社会ならではの強烈な同調圧力をかけ、一揆への参加を迫ったのです。

2014-04-13 04:18:32
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

その一揆も、江戸時代が終わり、ついに行われなくなりました。最後の百姓一揆にあたるとされるのは、明治17年の秩父事件、秩父困民党の蜂起です。これは自由民権運動にも影響を受けていましたが、やはり本質としては一揆でしょう。これを最後に、民衆は一揆という抵抗の手段を手放します。

2014-04-13 04:22:33
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

そして、ムラ社会的な同調圧力と相互監視のシステムだけが残りました。抵抗へのエネルギーは、同じ民衆への抑圧、あるいは国家のイデオロギーへの同調という形でのみ、放出されるようになっていきます。その一つの典型が、日露戦争の賠償金の少なさに怒った民衆による日比谷焼打事件です。

2014-04-13 04:26:15
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

国民は日露戦争の戦時体制のもとで、軍事費のために高い税金を取られ、息子たちを兵隊に取られて、不満が鬱屈していました。しかしその不満を、彼らは戦争そのものや、戦争を行った政府に向けるのではなく、政府のイデオロギーに沿う形で爆発させたのです。これは現在の在特会のルーツとも言えます。

2014-04-13 04:28:27
TOKYO DEMOCRACY CREW @TOKYO_DEMOCRACY

ただ皮肉なことに、同時にこの日比谷焼打事件は、民衆の怒りの力を権力に思い知らせることになり、大正デモクラシーの基盤になりました。しかしその大正デモクラシーも、軍国主義の台頭の中であっけなく潰えていきます。

2014-04-13 04:30:59